この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




自転車でリンクに通う高遠は、
瑞月とは別行動だった。

帰ってきた瑞月は、
母屋で迎えた総帥の腕に飛び込んで
〝お風呂入ろう〟
甘える。

それは、
本当にいつもの風景で

〝こちらでお入りになるかも
 って
 総帥から伺いましたから
 お着替えも用意できてますよ。〟

〝お夕食は7時ですよ。
 ゆっくりお入りください〟

女衆は
にこやかに
見送った。




〝あの……えっと、
 瑞月さんて
 総帥とお風呂入るんですか?〟

綾子は
目を丸くする。

〝仲良しなんですよ。〟
さらりと
女衆らは返す。

さらさらと流れることは
日常の穏やかさに
抱き取られていく。


〝男の子って
 羨ましい……。
 当たり前に抱きつけちゃうんですね。〟

綾子は
心底
うらやましげだ。

当たり前ではないが、
綾子は
当たり前を知らない。



〝そうですね。
 仲良しは仲良しで
 見ていて幸せになりますよ。

 さあ、
 早番の皆さんに
 お出ししましょう。

 お広敷にお櫃を運んでくださいな。〟


その羨ましさも
さらさらと流されて
お櫃とお鍋と惣菜に消えていく。





そうして、
また
静かに時間は流れた。


「あら?」

綾子が
ぴたり
手を止める。


広敷から次々に運ばれる空の食器は
井戸旗で洗われていた。
その水は横の洗い場に蛇口をひねれば
提供される。


張り出した庇の下は
手際よく
皿に茶碗にと洗い上げていく影で
一杯だった。


一生懸命がプライドらしい綾子の
やや荒っぽいが
皆に追い付こうとがむしゃらな姿は
止まったら止まったで
なかなか目立つ。


気になったら
それしか
頭にない。


立ち上がって耳を澄ます。


そのあたりは
やはり
綾子様だった。



「どうしました?」
隣から一人が声をかける。



「タケチャン…………って
 聞こえました。」

綾子は首を傾げながら応える。


庭を伝って
その声は微かに届いた。





「そうですか。」

手は止まらない。


「…………たけちゃん?
 という方、
 行ってあげなくていいのかしら。」

綾子は続ける。




「なぜです?」

ちょっと早すぎる返事が返った。




「助けを呼んでる……?
 なんだか
 そんな声だったから……。」

綾子は
聞かれたら
そのまま応える。

綾子はそう感じた。
そういうことだ。




「御前が何か
 映画でもご覧になっているのでしょう。
 さあ
 次の準備を始めます。
 綾さん、
 ここお願いね。」


立ち上がった女衆は
肩に手をかけ
洗い場を示す。


綾子は
ふーんと
また
座り込む。


綾子に声をかけた女衆は
お勝手口を足早に潜り、
そして
戻らなかった。




一方、
綾子の手はなかなか動き出さない。
まだ考え中だ。



基本、
耳に自信はあった。

 確かに人の声よ
 テレビじゃないわ。

だから考える。
誰も動かないけど、
…………呼んでたし……。

 いいのかしら
 いいのかしら


そして、


流れる水音
食器に跳ね返る水音
賑やかな中に
綾子の良い耳は
シャーーーーーーーッ
次第に大きくなる音を聞いた。



ザザッ

あら?
思う間もなく
自転車は勝手口横に滑り込む。


さっ
飛び降り
軽々と愛車を軒下に寄せ
スポーツバッグを
リュックのように背にかついだ高遠豪は
ニコニコと
女衆に挨拶にくる。


「あ、
 あなた、
 たけちゃんて
 ご存知?」


綾子は
高遠に問いかける。

 この人
 聞いてくれる

 きっと
 聞いてくれる


綾子なりに必死だった。
だって
あの声、
呼んでたもの。
そう思う気持ちに
すっかり心が占められていた。



「ああ
 ぼくです。
 高遠豪。
 みなさん〝たける〟って呼んでくれます。
 一人、
 〝たけちゃん〟と呼ぶ友人もいます。
 瑞月が何か?」


高遠は
明るく応える。

ああ
もうだいじょうぶ
そんな根拠のない安心感に
綾子は
ほっとする。

か細い微かな声を聞いてから
ずっとどこか責められているような不安があったのが、
溶け出していった。


綾子は
一生懸命声を張った。

「さっき
 声が聞こえたんです。

 たけちゃんって呼んでました。

 で、
 とっても…………。」


綾子は
自分の感じたことを伝えようとする。

そして、
それは遮られた。


お勝手口に
すっ
女が立つ。



「豪さん
 ちょっと」


その顔は
闇に沈んで見えなかったが
その声は
緊急性を孕んでいた。


ぱっ
身を翻す高遠に
綾子様は
慌てる。



「あっ
 待って…………。」


止まって!
聞いて!!


が、
勝手口の灯りに浮かんだ
高遠の表情の厳しさに
それは
引っ込んだ。


 なんて目……。
 私は見えてない。
 私の声も聞こえてない。

 何を見てるの?
 ……ここにないものを?





〝みんな
 大切な人が
 いるんだ。

 誰にとっても 
 それが一番大事なことだ。〟


この人には
すごく大切なことがある。




〝すぐ行きなさい!〟

 まだ小学生だったと思う。
 季節も覚えてない。
 お食事の席に私は座ってた。

 お祖父様が
 執事に囁かれて振り向いて仰有った。



 えっと……名前も知らない
 小間使いの一人が
 お辞儀して
 小走りに出て行った。


 私は
〝お部屋を走っちゃいけないわよね。〟
 と
 お祖父様を見上げた。


 なぜかしら。
 お祖父様と私しか
 テーブルにはいなかった。


 お祖父様は
 ひどく真面目なお顔になった。


 〝走っていいんだ。
  大事な人が大変なとき、
  少しでも早く行きたいだろう?〟

 よくわからなかった。

 〝だめと
  ちゃんと
  教わってますのに〟

 

 お祖父様は
 ちょっと悲しそうな顔を
 なさった。

 〝綾子、
  私が倒れた
  と
  聞いたら、
  走ってくれるかい?〟

 〝もちろんよ
  お祖父様
  大急ぎで走っていくわ。〟

 〝ありがとう
  綾子は
  私を大事に思ってくれるんだね。〟

 あっ
 と
 思った。

 〝みんな大切な人がいるんだ。
  誰にとっても
  それが一番大事なことだ。〟



綾子は
足早にお勝手口を入っていく高遠豪を
見詰めていた。

あの声は
高遠豪に届いた。

そう感じた。




 どんな大切が
 どんな大好きが
 あんなお顔を作るの……?


 私、
 鷲羽様が大変なとき、
 どんな顔をするの……?





たけちゃん

たけちゃん

たけちゃん

………………。


あの子の声だったんだ。


綾子は、
行儀見習いライバルの顔を
思い浮かべる。

 たけちゃんは
 あの子が大切だ。
 とてもとても大切だ。

それは
綾子に染み通った。





大好きって何だろう。
わくわくだけではない思い。
綾子は一生懸命考え始めていた。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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