この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




ポーーン

鍵盤に遊ばせていた指が
思い切ったように
白鍵を叩いた。


肩から流れる黒髪は
深窓に守られて慈しまれた乙女そのままに
一筋の乱れもない。


絹以外
触れたこともない肌は、
象牙を思わせる肌理細かさと
透き通る白さを
黒鍵に際立たせる。


今叩いた音色が
まだ残響を残す中、
朱唇は
小さなため息を洩らした。



乙女の自室と覚しきそこは、
戦前に遡り
華族の屋敷に迷い込んだかの設えだ。



事実、
華族の血を引く名家三枝家は、
浮き沈みの激しかった戦後を勝ち抜いた
権勢を誇る家でもある。


党首三枝憲正は、
政界の御意見番として知られ
老いたりといえど
矍鑠と政財界に君臨していた。



長男憲明はというと、
その後継となるには
やや優柔不断な自身を知り、
芸術方面の支援を生業とし
美術館とコンサートホールを経営しつつ
莫大な資産の運用に
徹している。


家の実権は
党首たる三枝憲正が握っているのは
当然のことだった。


 憲正の愛を
 一身に受けているのは孫娘だ
 さしもの獅子頭も
 孫のためならいつでも時間を空ける

それは、
これから大事の参拝というときに
憲正が孫娘の発熱を理由に
参加を断って以来の風評である。

それが、
参拝そのものを忌避したとも
その後
失礼をいたしましたからと
一回も加わらないことから囁かれてもいるが、
それはそれで口にするのが憚られ、
〝孫娘命〟という風評だけが
広く残っていた。



その獅子頭の掌中の珠である
ため息の主は
名を綾子という。

もはや〝子〟のつく名前そのもの
古めかしい印象があるが、
もちろん憲正の命名だ。



代々麗人で知られる奥方の血の恩恵だろうか。
獅子頭かと裏で囁かれる
祖父の血を引くとも思えぬ麗質に
おごりの春を欲しいままにしていた。




思案げに
鍵盤をなぞる指の細く美しいことは
言うまでもない。
象牙の光沢に
見るものを誘う蠱惑を備えている。


いきなり
スツールを立った。

そして、
壁際の飾り棚に
ずらりと並ぶ写真立ての前に
乙女は
小走りに駆け寄る。



お宮参りに始まり
数々の祝い事
家族旅行
等々
18歳の今日までを彩る写真が
そこには並んでいた。


その中央に
新聞の切り抜きが
一つ
色彩を異にしている。


一人の男が
ステージに立ちマイクに向かっていた。



鷲羽海斗、
今をときめく鷲羽財団総帥の
就任挨拶の姿が写真立てに収まって
綾子を見詰め返す。




「もう!
    お祖父様のばか!!」

姫の口から出るには、
少々
荒々しい言葉が吐き出された。


この4月、
お嬢様ばかりが通う高校から
その系列校である大学へと進学したばかりの綾子は
一瞬、
自分の声に怯むように
ピクン!
とした。



綾子は、
くるくると
室内を回り出す。


この麗しい姿に
似つかわしくない
檻の中の熊を思わせる行動は
昨日から始まっていた。



コン コン コン


ぴたっ
足が止まる。


「綾子、
 入っていいかな?」


政界周辺の者が耳にしたら、
また
〝孫娘命〟
噂で盛り上がるだろう。


獅子頭の憲正の
驚くほど遠慮がちな声が
乙女の部屋に響いていた。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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