この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




午前九時半、
音楽室はぽかぽかと温かい。
今日の面談はアキさんからだ。


アキさんは
この一年間をほぼ皆勤賞で
過ごしてきた。

「音楽室で面談って
   いいかも。

   窓が広い。
   空が見える。」

少し沈んでいる。


「卒業しましょう。
   応援しますよ。」

私は、
基本の呼び掛けから
始めてみた。

卒業したい
というキーワードに
何が返ってくるか。
そこから始めてみた。


大人クラスの在籍は揺れる。
事実、
土曜日の大人クラスは
入れ替わりが多い。


日曜日のこのマサさんクラスは
人の入れ替わりは少ない。
マサさんの力だろう。
が、
課題提出状況は芳しくない。
むしろ
土曜日クラスより悪い。

それは、
マサさんが、
好んで大変そうな生徒を引き受けたがるからだと
おタカさんは言っていた。




「二人とも
   格好いいよねー。
   テレビに新聞だよー。
   興奮しちゃったー。」

唐突に
アキさんは言い出す。
明るい調子の声が
キシキシと軋む。



「アキさん
   今日はお化粧が
   違いますね。」

私もイレギュラーに応える。
この軋む声には
何か事情があるのだ。
それは、
化粧にも現れる。
香水をつけていない。
化粧そのものの匂いも薄い。


「……うん」

私は待つことにした。
開け放った窓から
街の賑わいが聞こえてくる。


春の休日は
どこか華やかだ
新入生に新入社員。

大人クラスの生徒たちは
そうした休日を学校で過ごす。
それが
次の春を変えていく道だからだ。




「…………また、
  お店変わらなきゃ。
 今夜はね、
 行くところがないの。」

夜の仕事は
難しい。

若いときの転落を
アキさんは
踏みとどまった。
今は
年齢との競争に晒されている。

店をもち
失敗し
ホステスに戻り
入学してきた。


「あたしね、
   もうホステスは無理かも……。

   年よね、年。」

アキさんは
身に付いた明るさで応える。
お店で、
ずっと
そうしてきたのかもしれない。


「もう一度お店をもちたい。
   今度は潰さない。
 そう言って入学なさったんでしたね。」


おタカさんは、
そう言っていた。
バリバリの戦闘服に隙のない化粧、
見事に夜の蝶の姿で
宣言したという。


「……勢いでね、
 そう決めたの。

 このまま終わりたくなくて、
 でも、
 すっからかんで、
 何か欲しかったんだと思う。」


〝さくら荘二号室〟   
今時珍しい古びたネーミング。
下町も印刷工場が密集するあたりに
アキさんのアパートはあった。
 
〝たぶん引っ越したばかりだったかな。
 手帳を見ながら住所を記入していたから。
 まだ、
 自分の住所を覚えてなかったんだと思う。〟

おタカさんの言葉が甦る。



「今日は、
 春の大切な始まりです。

 この学校で、
 あなたは貴重な時間を過ごします。
 アキさん、
 学校を続けたいですか?」

私は尋ねた。
これは、
学校そのものを続けるかどうかから
始めなければならない。
そう思った。

また、
静かな時間が過ぎて行く。
先程のアキさんの声に
軋みは消えていた。
心は開いている。
話せる


風はさやさやと吹き渡る。
ああ、
よい日和なんだ。
そんなふんわりとした空気に
ふと
心を誘われた。


「……いいお天気。」

アキさんが
ぼんやりと呟く。
顔を窓に向けているようだ。


「ほんとうに。」

私は
アキさんに向けて
応える。




「……やっぱり、卒業したい。
 ちゃんと、
 何か頑張ったって思いたいの。」

押し出すように
アキさんは囁いた。

アキさんは
そう決めた。

今日は
どんな姿でいるのだろう。
香水もなく
化粧も控えめ
普段着のままなのかもしれない。

勝負服を脱いだアキさんの
最初の決断は
卒業することだった。



「卒業しましょう」

「はい……
 はい……
 はい………。」

ちょっと涙ぐんでしまったアキさんに、
私は
またしばらく一緒に過ごす時間を
もらった。



「さっき、
 二人のこと、
 言っていましたね。」

私はふってみた。

「マサさんが
 クラスのラインで
 うっかり話しちゃだめだぞって
 教えてくれたの。」

恥ずかしそうに
アキさんは応えた。

さすがはマサさんだな。
級長に抜かりはない。

「マサさんの仰有る通りですね。
 瑞月君は、
 ほんとうに嬉しそうに学んでいます。
 大人として
 守ってあげたいし、
 教師として
 支えてあげたいと思います。」

私は
噛んで含めるように
ゆっくりと話した。


「そうだよね。
 うちらも同じだよ。

   だいじょうぶ!!
 話したりしない。」

アキさんは
勢い込んで声を張る。
ほんの少しの後ろめたさを
自分の声で打ち消すみたいに元気な声だ。


「嬉しいです。
 さすがは
 アキさんですね。」

私は敬意をこめて応えた。
今の状況で
二人の出発の報は
複雑な思いだったに違いない。


アキさんは、
開けっ広げな人だ。
続きを話さないではいられないだろう。
私は待った。


「あのね、
 ほんとは、
 ちょっと妬ましかったんだ。

 あたしは
 クビになってさ、
 こんな大変なのにって
 悔しかった。

 そんなの二人に関係ないのに
 神様は不公平だなって。」

照れ臭そうな声に
ほっとする。
言えてよかった。
言えたら昇華していける。

悔しさも
今の辛さも
自分の問題として向き合える。


「二人もなかなか
 大変ですよ。」

私は応えた。



「そうだよね。
 瑞月ちゃんなんか、
 心にちょっとケガしてる感じだしさ。
 
 あんな感じに純粋なのって
 きっと
 心を守るためかなーって
 思ってたんだー。」

おやおや、
アキさんも、
客商売で人間を学んでいる。
流石だ。


「ねえ、先生。
 トムさんじゃないけど、
 あたし、
 ここに来たい理由があるの。

 さっき先生に訊かれて、
 考えて、
 卒業したいってのは本当なんだけど、
 なんか違うって思ってたの。
 話していい?」

声に籠る真剣さに
私も居住まいを正した。

「あたしね、
 ここに来るまで
 〝仲間〟って
 知らなかった。

 愚痴を言い合ったりする友達はいたよ。
 仕方ないよね
 どうせ変わらないよね
 って
 慰め合うの。

 そういうの、
 今もしてるし、
 そういう友達も大切にしたいって
 思うけど……。

 うん!
 その〝大切にしたい〟って気持ち、
 マサさんに出会ってから
 なんか覚えた気がするの。

 あのね、
 あの二人は
 仲間だからね、先生。

 すごくお金持ちだし
 雲の上みたいだけど仲間なの。

 大人クラスは、
 みんな訳ありなんだからさ。
 何でもなくて来る場所じゃないもの。
 訳ありだけど頑張って生きていきたい人が
 ここにはたくさんいる。

 だから、
 あたしは、
 ここに通いたい。
 だって、
 頑張って生きていきたいから。

 一番ここにいたい理由は、
 〝みんな頑張ってるんだから〟
 って思いたいからだって
 思います。」


私は
アキさんに向けて
にっこりと笑った。
ありがとう!

心から思った。



「じゃあ、
 単位取得を頑張りましょう。
 宿題、
 進んでいますか?」

「い、忙しくて……。」


「アキさん、
 課題提出が悪すぎです。
 少しずつでも
 進めていきましょう。」

「だってー……。」


アキさんとの進路面談は、
ようやく本格的に始まった。
気はいいけれど、
なにしろ

「センセー、
 あたし、
 勉強ってしたことないんだものー」

という生徒は、
とにかく生活時間から見直さないと
課題提出は覚束ない。


「じゃあ、
 アキさん、
 1日をどう過ごしていますか?」


一人に一時間の面談時間。
やはり正解だった。

残り、
三十分か。

アキさんと向き合いながら、
私は時間を計算していた。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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