この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。








シャーッ…………

シャーッ…………


ああ
浮かぶ。

リンクに
二つの軌跡が
弧を描く。



少年たちは
滑り出したな。


音は
目に映らぬものを映す。
高遠君、
君のスケートが
瑞月君に寄り添うように
シンクロしてるね。


「先生、
お寒くありませんか?」

「お借りしたもの、
大変具合がいい。

軽くて暖かいです。
快適です。
お気遣いありがとうございます。」


リンクには、
しとやかな風情の女性が
同行してくれた。

天宮咲さん。
瑞月君の御母堂だ。




先程の車中のやり取りが
浮かんでくる。


「…………海斗は?」

細い声だった。



「お仕事よ。」

暖かい声だった。
何でも言ってだいじょうぶ。
そんな暖かい声だった。



「……そう。」

細い声は
安心して寂しさを滲ませる。




「瑞月、
寂しい?」

分かっている。
分かってくれる声だった。



「あ……ごめんなさい。
先生もごめんなさい。
だいじょうぶ。
だいじょうぶだよ。

お母さん
来てくれてありがとう。
ちゃんと見てもらうの初めてだよね。

先生、
来ていただいてありがとうございます。

嬉しいな。
僕、
頑張ります!」


寂しい僕がいるんだね。
嬉しい僕がいるんだね。


抱き寄せる気配。
しばしの柔らかな息遣い。



高遠君は、
先に自転車でリンクに向かっていた。
私に遠慮してくれたのだろう。


私は、
運転する西原さんの脇に
座らせていただいていた。


「隣に失礼するよ。
降りるときに具合がいいんだ。」


そう申し出た私に
御母堂が
頭を下げられたのが
分かった。



瑞月君は
後部座席に
預けられた。



元気に食事する間も、
ひそやかに
優しい気配りが
張り巡らされていた。


伸びやかに
素直に微笑む少年を見るにつけ、
守る思いに
みなが心を砕いているのが分かった。


御母堂は
言い聞かせた。


「瑞月、
見てます。
見てますからね。

昨日のあなた、
咲は誇りに思いますよ。
あなたは皆を守りました。

あなたのスケートは
きっと同じ力があります。

人を動かす。
心を温める力があります。

頑張ってね。」


優しい
優しい声だった。




待ち受けていた高遠君へと
瑞月君は託された。

春の日差しが
暖かかった。

「行くよ
瑞月」


高遠君の声が
優しく促す。

瑞月君は、
日差しの中に
ぼんやりしていたようだ。

思い出していたのかい?
この日差しに抱かれて
互いを確かめあったんだね。




それは、
君を
とても美しくしたようだ。

息も凍るリンクに
ピンクの嬌声が響き渡る。



「キャー
二人とも
なんか素敵になってるー

さあ、
もっと素敵になるわよ!」


「調子良さそうだね。
体を暖めたら
ジャンプの確認からいくよ。」


おや?
この声…………。

指導者の一人は
実父だと聞いた。

似ている。
随分と似た声だ。



「似てますでしょう。」

「はい。」

「瑞月は、
幼子のように
総帥を頼りにしていました。

総帥の声は、
あの子を安心させたのかもしれません。」

「はい。」

「あの子が
総帥を生かしてくれました。

総帥は寂しい方でしたから。」

「はい。」


「私は、
子を亡くしました。」


「…………。」

「また
授かりました。」

「…………。」

「守りたく思います。
お導きください。」



しっとりと、
しなやかな声に、
余計な質問は憚られた。

〝あなたは、
闇の存在を信じますか?〟

それは、
もう、
不要な質問なのだ。




「力を尽くします。」

母の覚悟に
私は応える。


「ありがとうございます。」




スケートとは、
美しい競技のようだ。


二人の滑る音が
軽やかに疾走する二つの体を
感じさせる。


美しい二人だ。


見えない目には
心に映る君たちが
像を結ぶ。


高遠君、
逞しい野生を秘めた君だ。
守る思いに磨き上げられ、
その野生は
どんなにか優雅に人の目を奪うだろう。


ジャッ……!

切り返すエッジの音に
咲さんの巧まぬ嘆声が上がる。






瑞月君。
不思議だね。
氷の音が、
まるで氷自身が君を乗せるために
道を開いていくように
私には聞こえる。


音楽室の君を
どう感じたか分かるかい?


気がみなぎっていた。
その気が君を守り舞わせていた。
聖なる存在。
君は不思議な子だ。
舞うとき、
君は神を宿す。




「西原、
まあ、
どうしましょう。」

御母堂の
呆れたようでも
愛しげでもある声が響く。


「西原さん、
どうしましたか?」


「公私混同です。
部下を呼びつけたのね。

持ち場を離れて
リンクに来てます。」


「彼らしい。
思い込んだら命懸けだ。

昨日があって
考えたのでしょう。

高遠君に
〝音楽室の仲間〟
と呼び掛けていました。

現実の警護だけでは
守れないという現実を
受け止めたのだと思います。

お許し願えませんか?」


「…………闇の攻撃ですね。」


「はい。」


「どんな備えが必要ですか?」


「心を強くもつこと。
信じるべきを信じること。
それだけです。

お母様には
十分な備えを感じます。
瑞月君への言葉を伺い感じ入りました。」


「恐れ入ります。
それにしても、
なぜリンクにいようとするのかしら。

瑞月を見ていたいだけじゃないかと
疑ってしまいます。」



思わず笑ってしまった。

「それが本音かなとは思います。
が、
空間が閉じた場所は、
結界となりやすい。

音楽室は閉じてしまいました。

何かが始まるとき、
その中にいたいのでしょう。

そして、
頑固ですからね。
自分がいなくては!

思い詰めていると思いますよ。」



御母堂も笑っておられる。

ひとしきり
お笑いになり、
御母堂は切り出した。

「先生、
母としての悩みが
もう一つございます。

瑞月を守る若者たち、
瑞月に恋しています。

その恋情に
あの子が揺れないか
いつも気を付けております。

あの子なりに
真っ直ぐに受け止めていますようで
今のところ、
だいじょうぶと見てはいますが、
切なくもなります。


一方、
総帥には
これから女性が群がることになります。
こちらは、
どうなることやらと
気を揉んでおります。

他のお宅のお子さんなら
もうお子さんに任せる年齢でしょうが…………。」



私を試されている。

昨夜を受けて、
御母堂も、
これからに備えておられる。


しんしんと冷えるリンクに、
私たちの真剣勝負は
続いた。


当然だ。
私たちは守りを固めなければ。

西原さん、
あなただけでは
ありませんよ。




「瑞月君は、
今、
その年齢にない。

目を離せませんね。」


「はい。
やはり、
ご理解いただけていました。

有り難く思います。」



ほう

その口を洩れる吐息は
白く形をもったろうか。




「無垢な魂。
そんな言葉が浮かびます。

傷ついた自分を守るために、
一度は殻を閉じていたお子さんと
見ています。

それが、
一つ一つ向き合って
なお無垢を失わずに成長しようとしている。

お母様、
鷲羽様、
皆様の守りを感じます。」




「はい。
ありがとうございます。

瑞月を先生に受け持っていただけますこと、
神様のお計らいと感謝しております。」




私も試します。
互いに
知るべきことはたくさんある。


「私が不思議な夢を見てきましたこと、
お聞きになられましたか?」


「はい。
承っております。

これは、
そうなる運命のままに進んできたこと。
そうも受け取れます。

ですが…………。」




御母堂は、
しばし
その言葉を止めた。


「ですが?」


「その運命は二人の今が
受け止めるものです。

その嘘のない今なくして、
勾玉の守りはありません。

運命は真摯に生きる二人の生き様あってのものです。
流されて全てを受け止めることは、
闇の術中に陥ることに繋がります。

昨夜、
それを痛いほど学びました。
今を生きることに
瑞月を支えたい。

そう考えております。」


凄い。
凄い女性だ。
力強い。


このリンクの気温に相応しいな。

冬の厳しさを
思い起こさせる。

凛とした
清烈なもの。


それでいて、
あなたは暖かい。


進むべき道を示し、
その道を行く者の安らぎの場を
あなたは
その懐にもっている。



「まさに。
正に、
そう思っております。
若者たちにも
それを伝えました。

運命という言葉は、
ときに諦めを引き出します。

その諦めを誘うように、
闇は
幻を武器とする。

その幻に負けない今を生きる心が
何より大切となります。

若者たち、
音楽室では
なかなかの強者ぶりでした。
今をしっかり見詰めています。

特に高遠君、
昨夜を受けての今を見れば、
その強さは
筋金入りですね。」


御母堂が
頷きながら聞いておられるのが
伝わってきた。



少年の頃から抱えてきたものは
ときに
暗く重苦しく
私にのしかかった。


それが、
今、
一筋の道となり
目の前に開けている。



今日、
ここに来てよかった。







シャーーーーーッ

氷を削る音が、
一筋のラインを中央へと進む。



ボレロが始まった。

御母堂が
息を呑む。




ミテイルヨ

そっと私は胸に呟く。



シャッ……


私は氷の歌を聴く。
瞬時たゆたい、
一気に
急流に身を投じる。


舞い上がる!
舞い降りた!


氷を蹴る白鳥よ
君の愛が

矢のように
真っ直ぐに伝わった。


お母さんがね
握り締めた手を
胸に押し付けた。


涙を感じる。
お母さんの涙が、
君の思いに応えているよ。


疾駆する
しなやかな体が
近づいたかと思うと遠くなるエッジに
感じられる。



ただ、
君の奏でる氷の歌に
私は酔った。


この氷上に風が起きる。

風は
私を巻き込み、
氷の歌は
風に乗り
ボレロの熱に私を焼く。


愛している
愛している


長よ
あなたは
この舞いを
見たのだろうか。



イラストはwithニャンコさんに
描いていただきました。