黒猫物語 阻止せよ 8
NEW! 2016-09-17 10:44:55
テーマ:クロネコ物語

この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





ちびの頃、

門から玄関まで
帰ってくる俺を迎えるのは
夢見るように
流れてくるピアノの調べだった。


あの人が
上手だったのか
俺には分からない。


ただ
美しかった。
あの館の全ては
美しかった。



あの桜の季節に
あの人は
蒼白い焔に包まれた。



次の桜を前に
あの人は
入水した。



俺の季節は
あの一年に塗り替えられた。


余りに美しく
余りに哀しく


季節はすべて
その顔を変えてしまった。



6月…………。
細い細い歌声。

浮遊するように
水辺を歩くあの人の肌に
俺は
初めて触れた。



真似て
真似て
その肌に触れた。


細い細い歌声にある哀しみに
切なく待ち焦がれる魂に
俺は………………。




「ほう
ほう
蛍こい

あっちの水は
苦いぞ

こっちの水は
甘いぞ」


………………声に甦る………………。

甦る…………甦る……甦る………………耳に……

目に…………指先に………………甦る。




「すごーい!!

かっちゃん
上手!!」

甘く
愛しいお前の声。




瑞月
お前は
似ている。


あの桜以前のあの人に
よく似ている。


無邪気で
お日様に透ける儚さで

〝海斗
海斗
大好きよ〟

あなたは
繰り返した。

少女のように
あなたは
繰り返した。


何物にも染まらぬ
美しい人を
俺は
ただ守っていた。


守っているつもりだった、








漆黒の長い髪
長身に鎧う薄く張り巡らされた筋肉

あなたの白い体を
折り曲げ
橈ませ
美しく奏でていた者。


桜の咲き染めた日から
一夜の嵐に
舞い狂う花びらを見た日まで

俺は
あなたを
見詰め続けた。



あなたは
染め抜かれ
一人残され
…………哀しい人になった。



手を差し伸べる
眸は
ひたすらに姿を追う。


唇から
洩れる甘い声……。



ほう

ほう

蛍こい



ほう


ほう


蛍こい




その手を
取らずには
いられなかった。
あの不思議な男を真似て…………。





「海斗!」

背中に抱きつく
柔らかい体に
俺は
今に
引き戻される。


「ねぇ、
歌う唄、
決めてるんだよ。

こっち来て!」


抱きつく腕にこもる力に
声音の色に
それは漂う。




微かな不安。
お前は
俺を映す鏡だな。



「ああ、
済まない。

思い出していた。」


隠さない。
伝わってしまうものは
隠さない。





「悲しいこと?」


「ああ。」

瑞月、
俺はお前には
隠せないことばかりだ。




ほっとして、
お前の眸は俺を包もうとする。




「海斗、
まだ悲しい?」



見上げる眸の素直な明るさに
その
あどけない
小首を傾げる仕草に


俺は
既に
報われている。





「お前がいる。
だから、
悲しくない。」


ぱっ

明るむ顔に
既に
俺は幸せだ。



「うん!

僕も!!

海斗がいるから
悲しくないよ。

一緒に歌おう、海斗。
僕の思い出
分けたげる。」


瑞月に
手を引かれ、
俺は輪に戻った。



「雄弁な背中をお持ちだ。
さあ
歌いますよ。

かっちゃんのリクエストで
〝蛍こい〟です。」


マサさんが
静かに迎えてくれた。



「渡邉さん、
理由を
みんなに話せますか?

もし、
よければ
あなたの思いを知って
私は弾きたいし、
皆さんと歌いたいです。」


水澤先生の言葉が
さらに
心を静めてくれる。



ひどく痩せた
渡邉という男は、

ゆっくりと

やや子どもじみて感じさせる
一本調子に

語り出した。



「私は
合唱団にいました。

〝蛍こい〟を
最後に歌いました。

私は違う音で歌います。
そうすると
綺麗です。」


「二部合唱ですね。」


「違う音です。
綺麗です。」




先生は、
〝蛍こい〟の低音部を弾く。


同じ音程でリズムを刻む。
歌いやすい。




「私も低音を歌いましょう。

バランスが必要です。」


俺は申し出た。

「では、
高音は西原さんに柱の声を
お願いします。

高遠さんは低音を。

低音は、
渡邉さん
鷲羽さん
高遠さんの3人で
十分な声量になるでしょう。」



瑞月が、
背伸びして
俺の耳に口を寄せる。

「……僕、
海斗と同じがいいな。」



俺も
身を屈め
その耳に口を寄せる。


「お前はメロディーを
歌ってくれ。

お前の声で
覚えたい。」



ぱっ

頬を染め、
お前は俯く。


「そうなの?
僕、下手なんだもの
恥ずかしいな。」


愛しい

愛しい

愛しくてたまらない。




「お前の声で、
一つ一つ覚え直していく。

俺の中の歌は、
お前の声で聞きたい。

西原さんについて歌えば
だいじょうぶだ。

西原さん
よろしくお願いします。」



「はっ、はい!!」


西原、
返事がよすぎるだろう。
部下丸出しだ。


そのくせ、
瑞月は〝瑞月〟呼びとは
どういう理屈だ。





思いながらも、


瑞月を
西原に向かって
押し出してやる。




ズボンの尻で手を拭くのか、西原。
気を遣うなら
ハンカチくらい用意しろ。




西原に手を執られ、
お前は
マサさんを囲む高音部に入った。





渡邉の痩せた体を
高遠と俺が挟む。




ピアノが
優しく唄を促す。


最初の3音は分かれない。
4音目だ。


音は
見事に和した。



ほう

ほう

ほたるこい




瑞月のあどけない声に
俺は入りこんでいく。


二人、
まだ過ごさぬ季節だ。
既に桜を
俺は知っている。



お前のそのときは
俺に桜を見せてくれる。


蛍を
お前は
どう見詰めるだろう。



澄んだ川の流れに
蛍は群れ飛ぶ。



その愛らしい声で
お前は呼ぶだろう。


ほう

ほう

蛍こい




遥か昔に霞む景色の中、
俺は
浴衣を着てあなたの手を握っていた。


小さな俺の回りは
尾を引いて飛ぶ光が
星を映したようだった。


〝お母さん
綺麗だね〟


俺は
何度も
何度も
あなたを見上げて言ったんだ。


川はさらさらと流れていた。
川面には月が映っていた。


お母さん

お母さん

お母さん


俺は
何度もあなたを見上げた。


そんな夜があった。

そんな夜が幸せだった。






「海斗!
綺麗だね!!」

歌い終えて
お前は
飛んでくる。


「合唱って
声が揃うって
すごく綺麗。

海斗と一緒に
綺麗なもの
聞いた!!」


俺の幸せが
目の前にある。





渡邉が
瑞月の肩に触れる。


〝話すよ〟

合図のようだ。


「声は
みんな違うから
綺麗です。

違うと響きます。

そう
教わりました。」



違うから響き合う。


一本調子な中に
この男の精一杯の思いが
込められている。



歌一つに
思いは
様々にあるものだ。




「ほんとだね。

かっちゃんは、
すごいんだね。」


そうして、
お前は微笑む。


お前は微笑み、
俺は幸せになる。


瑞月、
俺はお前がいる限り
幸せに息も詰まるようだ。


それがわかった。

それを

俺は

学んだ。