黒猫物語 浮舟の選択 56 あの日
NEW! 2016-08-22 02:18:25
テーマ:クロネコ物語

この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





拓也さんが
三人に近づいたのは、

瑞月の泣き声と
ご夫婦の涙が
ひとまず
落ち着いた頃だった。



海は
俺たちを包み込むように
波を寄せる。


何もかもを奪っていったのに、
それでも
海は
煌めいて美しい。


理不尽に
奪っておきながら
まるで
分かっているよ

言うみたいに
浜辺の人たちを海は包む。


この浜辺では
夏に
花火を上げるんだそうだ。


離れていった人たち
残った人たち


ここに人生を築いた人たちが
願いを込め
祈りを込めて
それを見詰めるんだ。



そこにあった輝く日々を
確かにあったと
そこに生きてきたと
みんなで海に上がる花火を見詰める……。


海は
ここに生きた人たちに
何かを返してくれてるんだろうか。





さっきより
波打ち際は近づいていた。


優しい海鳴り
キラキラ光る海




拓也さんは、
ご夫婦に何か話し、
俺たちに
手を振る。




海斗さん
結城さん
伊東さん



俺たちも
三人に近づいた。




拓也さんは、
ご夫婦に頷いた。




ご夫婦は、
まず
瑞月を気にかけるようで、
互いに顔を見合せては
瑞月を窺った。




瑞月が
小首を傾げて
お二人を見上げる。


「何か
僕のこと?」




ご主人が
思い切ったように、
瑞月の頭に手を置いた。




「瑞月ちゃんが
お母さんを
最後まで待ってただろ?

だから、
わしらは
新しく入る人がいるたびに
聞いてみたんだ。

助かってたら
って思ってなぁ。」



瑞月は
じっとご主人を
見詰める。




ご主人は
困って
奥さんを見た。



瑞月も
奥さんを見た。



奥さんは、
瑞月の目を見て
覚悟を決めたみたいだ。



「瑞月ちゃん
座りましょう。」


奥さんは、
そう
しっかりと言った。




砂浜に
瑞月は座り、
俺たちも座った。



奥さんは、
瑞月の前に
きちんと座った。


そして、
手を握った。





「ごめんなさい。
瑞月ちゃん。

はっきりしたお話ではないの。
それに、
助かったというお話でもない。

亡くなられたお話です。

瑞月ちゃんは
聞きたいですか?」




瑞月は、
そっと胸に手を当てた。

目を閉じて、
静かにその手を離さない。




海斗さんが
立ち上がり
瑞月の横に座った。




瑞月は
目を上げた。


「聞きたいです。」



瑞月は、
語尾まで
しっかりと言い切った。




初めてだ。
初めて聞いた。




お母さんは?

分かんない




5年前、
お前はそう言った。

分かんない

語尾は溶けて消えていった。




今、
瑞月は
しっかりと
奥さんを見ている。



「瑞月ちゃんは
スケートの靴を入れた大きなバック、
お母さんに
捨てなさい!

言われたのよね。」


「はい
そして、
後ろを見てはだめ。
走りなさい。
って
言われました。」


「黒い
肩掛けのついた
大きなバックだった?」


「はい」


「お母さんは
ピンクのダウンジャケット。
そうだった?」


「はい」


「黒い肩掛けのついた
男の子がもつような
大きなスポーツバックをもって
ピンクのダウンジャケットを着た女性が
水に呑まれるのを
見た方がいます。」



瑞月の目は一杯に見開かれ、
でも、
涙は溢れなかった。



背が
ぴん

伸びている。




「はい」


そして、
しっかりと返事した。




伊東さんが
グッ

声を洩らした。



泣いてる。


伊東さんが
瑞月の代わりに
泣いてる。





結城さんは
深く
ため息をついた。



大きな荷物が
ふっ
と消えたみたいな
ため息だった。




「道沿いのご老人で
もう走れないと思って
屋根にいた方から
伺いました。

そのお宅、
土台がしっかりしていたみたいで、
流されなかったそうです。」



奥さんは、
そこで
躊躇った。



瑞月は
変わらず
奥さんを見詰めていた。



奥さんは
気を取り直した。



「そのご老人が仰有るには、
その方は
座り込んでいたそうです。

大事そうにバックに体を被せるように
座り込んでいたと
仰有いました。


そして、
高台の方から走ってきた男の方が
女性を抱き起こしたそうです。

たっちゃん
そう女性は言ったと聞きました。

知ってる人ですか?」





結城さんが答えた。
顔が蒼白になっていた。



「高校のクラスメイトです。
彼女は
たっちゃん

呼んでいました。」




結城さんは
もう
〝たっちゃん〟で
十分に
その人が分かったようだ。



でも、



瑞月は首を振る。


「たっちゃんという人は
知りません。」





俺は
思わず
口を出した。



「いつも試合に来ていた人は
なんていう人?」



リンクサイドで
瑞月たちは、
いつも
にこにこしていた。



シャボン玉みたいに綺麗で
シャボン玉みたいに儚い二人を
いつも
いつも
守っていた人がいた。



俺は
俺は
ああなりたいと
思っていた。



お前に
寄り添って
守っていたいと。




「秋川さん。
リンクの人だよ。
下の名前は聞いたことない。」


瑞月には
その人の名前が上がるなど
思いもよらないことのようだった。





「瑞月、
フルネームは
秋川達夫さんだ。

お父さんが見た
お母さんを
受け止めた人だ。


お二人は距離を置いていたと思う。
リンクの人たちも
親しいとは知らずにいた。

下の名前は使わなかったんだね。」




瑞月は
ゆらりと揺れた。

伸びていた背筋が
たわんで
倒れかかる。


瑞月の混乱は
瑞月を壊しかけていた。



海斗さんが
肩を支えた。




「瑞月
高遠を見ろ。」

海斗さんの声が
力強く響く。




瑞月が
ゆっくり
俺を振り返った。



顔を向けているだけだ。
でも、
向いてくれた。



俺は
腹に力を入れた。




海斗さんが
俺を見る
瑞月の背に声をかけた。


すごく優しい声だった。


「高遠は
お前を大事に思っている。

同じだ。」




俺は
瑞月に
その言葉が染み通るのを
静かに待った。



瑞月が
俺が待っているのに
気付いたように
ふと
眸を動かした。




俺は、
話し始めた。



「瑞月、
俺は秋川さんを
覚えていた。

いつも
お母さんとお前を守っている人だと
感じていたからだ。

だから、
秋川さんだと
分かった。

俺は、
あんなふうに
お前を守りたいと思った。


秋川さんは
友人として全力で
お母さんを守っていた。
男としてじゃない。

俺も
そうしたい。

そうしたいんだ。」



見開かれた瑞月の眸に、
涙が
盛り上がった。



「たけちゃんと同じ?」

小さな
小さな
消え入るような声が
その唇から
押し出された。





俺は頷いた。

俺は揺らがない。
揺らがないことが
お前を守ることだ。



「俺と同じだ。

俺は瑞月の側にいる。
瑞月を守りたいからだ。


秋川さんも同じだ。
お母さんを
守りたかったんだ。


そして、
守った。


いつも
守っていた。


ガキの俺にもわかるくらい
一生懸命守っていた。」





奥さんは
その女性が
瑞月のお母さんだと
確信したようだった。



瑞月の手を
ぎゅっ

力を込めて握り直した。


そして、
大切に
大切に
一語一語話してくれた。





「秋川さんは
お母さんを立たせようとしたそうです。


お母さんは
立ったけれど
歩けませんでした。


見ていた方は
足を怪我していたのかも

仰有っていました。


それから、
水音が
とても大きくなって
もう
屋根の上の方は
覚悟して、
屋根にしがみついたそうです。


だから、
最後の瞬間の姿は
見ておられません。


頭を上げたときは、
道は黒い水で
いっぱいだったそうです。



ただ、
一声
女の人の声を聞いたんだそうです。


とても綺麗で
とても響く
とても温かな声だったそうです。

ご老人は
繰り返し仰有いました。

わしは
地獄の中で
女神様の声を聞いたと。

その声は
〝ありがとう〟

言ったそうです。」



俺たちは
しん
とした。



すごく
厳かな気持ちだった。


人は、
死にゆくとき、
こんなにも、
美しい願いをもてるのか。


俺は、
震えていた。


あの
ふわふわと可愛らしかった人が
最後に発した声は、
時を超えて
俺たちの心に響き渡った。





拓也さんは
まず
結城さんに向かった。



「〝ありがとう〟
しか
わかりません。

ですが、
万感の籠る〝ありがとう〟だと
思います。

その〝ありがとう〟は
何年も大切に守ってきた
思いではないでしょうか。

秋川さんへの感謝ですが、
最後の最後まで
変えられなかった思いを
感じました。」



結城さんは
もう
分かっていた。


分かって、
そして、
泣き伏した。


大人の男性が声を上げて泣く姿が、
この浜辺では
自然だった。


伊東さんが
傍らに
屈み込んだ。
顔は見えない。



ヨナさん

ヨナさん

ヨナさん

……………………。



ただ名前を呼ぶ声が涙声だった。






次に
瑞月に向かった。

「瑞月、
お母さんは
君のバックを抱えてた。

大事に覆い被さって
津波を待っていた。

守りたかったんだね。
君を守っているおつもりだったんじゃないかと
俺は思った。


走って
走って
生きて
生きて


そう祈りながら
バックを抱えていたんじゃないだろうか。


ただ、
君を生かしたかった。
君に生きてほしかった。
それは確かだ。

そう思う。




そして、
最後の瞬間まで
誠実に
生きられた。



最後のありがとう
美しい言葉だ。



これが最後というとき、
君のお母さんは
心を込めて
全力で伝えたんだ。



その声が
あの濁流の中で
人の心に残るくらいに
響いた。


君は、
そのお母さんが
生きて

願った子だ。


俺は、
君に、
お母さんの願いを
受け止めてほしかった。


だから、
ご夫婦にお願いした
今日、
来てくださるように。


瑞月、
受け止められた?」



奥さんは
涙でぐしゃぐしゃになって
瑞月を抱き締めた。

ご主人は
拳で涙を拭っていた。


瑞月は、
溢れそうな涙を持ちこたえていた。


そして、
しっかりと
周りを見回した。


海斗さん、
俺、
結城さんと伊東さん、

そして、

最後に、
拓也さんを見て、
答えた。


はい!

瑞月に
そんな大きな声が出せるなんて
驚いた。


その声は、
とても綺麗で、
とても響く、
温かい声だった。


俺たちは、
無数の星に輝く夜空のように
大切な人たちの魂が眠る海を前に
天使の声を聞いた。


思いは届き、
思いは繋がる。



後ろを見てはだめよ

走って

走って

生きて

生きて

生きてちょうだい





ありがとう

守ってくれて

ありがとう

いつも

いつも

感謝してました





ヨナ

ヨナ

愛してる

ずっと

ずっと

愛してた








涙が止まらなかった。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。