こんばんは、鈴木亮平です。
今日で阪神大震災からちょうど20年が経ちました。
故郷の西宮市に帰る度、その成長のスピードに驚き、あの悲劇からよくここまで発展を遂げたなと誇らしい気持ちになります。またその裏には、間違いなく数え切れない人たちの努力と戦いがあったことと思います。
当時僕はまだ12才でしたが、揺れの瞬間や、早朝に家族と避難した公園、避難所の体育館、給水車や自衛隊の方々、転校してそれきり会えなくなった友達のことなど、今でもはっきりと覚えています。
あれから20年。
俳優という職業を選んだ今、震災を経験した自分が、舞台「HIKOBAE」や「花子とアン」などで震災に関わる役を演じる機会をいただく度、これは偶然ではなく使命なのだと感じます。
"メッセージ"というほど高尚なものではなくとも「自分だからこそ伝えられる震災への"想い"はなんだろう」と考えながら演じてきました。
それは、言葉にならないもので、だからこそ演技という表現を通して伝えられるんじゃないかと。
東日本大震災が起きた時、多くの表現者が「自分のやっていることは一体なんの役に立つのだろう」と無力感を覚えました。僕もそうでした。
しかし今は、ストーリーを伝え演じることで、人の心を癒せることがあると確信しながら、自分の職業と向き合っています。
20年前のあの日を忘れないことで、その後起きてしまった、そしてこれからも起こるであろう様々な悲劇に対して「自分は俳優として何ができるのか」ということを真摯に考え続けていきたいと思います。
何だかまとまりのない文章になってしまいましたが、20年目の今日、街の復興よりも時間のかかる「心の復興」にこれからも俳優として関わり続けていきたいと、気持ちを新たにした一日でした。
明日も、皆さんが大切な人たちと平和に暮らせますように。
2015年1月17日
鈴木亮平
今日で阪神大震災からちょうど20年が経ちました。
故郷の西宮市に帰る度、その成長のスピードに驚き、あの悲劇からよくここまで発展を遂げたなと誇らしい気持ちになります。またその裏には、間違いなく数え切れない人たちの努力と戦いがあったことと思います。
当時僕はまだ12才でしたが、揺れの瞬間や、早朝に家族と避難した公園、避難所の体育館、給水車や自衛隊の方々、転校してそれきり会えなくなった友達のことなど、今でもはっきりと覚えています。
あれから20年。
俳優という職業を選んだ今、震災を経験した自分が、舞台「HIKOBAE」や「花子とアン」などで震災に関わる役を演じる機会をいただく度、これは偶然ではなく使命なのだと感じます。
"メッセージ"というほど高尚なものではなくとも「自分だからこそ伝えられる震災への"想い"はなんだろう」と考えながら演じてきました。
それは、言葉にならないもので、だからこそ演技という表現を通して伝えられるんじゃないかと。
東日本大震災が起きた時、多くの表現者が「自分のやっていることは一体なんの役に立つのだろう」と無力感を覚えました。僕もそうでした。
しかし今は、ストーリーを伝え演じることで、人の心を癒せることがあると確信しながら、自分の職業と向き合っています。
20年前のあの日を忘れないことで、その後起きてしまった、そしてこれからも起こるであろう様々な悲劇に対して「自分は俳優として何ができるのか」ということを真摯に考え続けていきたいと思います。
何だかまとまりのない文章になってしまいましたが、20年目の今日、街の復興よりも時間のかかる「心の復興」にこれからも俳優として関わり続けていきたいと、気持ちを新たにした一日でした。
明日も、皆さんが大切な人たちと平和に暮らせますように。
2015年1月17日
鈴木亮平