こんばんは

 

誰でも

「子供には健康であってほしい!」

と思いますよね。

 

ですがそれが具体性を増すと

あまりよくないことが起きます。

 

例えば親が子供に対して

「東大に合格してほしい」

と思ったとしましょう。

 

子供が高校生ならば、子供も自分なりに考えて部活と勉強の両立を考えたり

あるいは、自分の学力を見て「それは無理そうだから、東大は受験しない」と拒否することも出来るでしょう。

 

しかし、それが幼児の頃から既に目標としてあったらどうでしょうか?

 

世界が自分とママ(とパパ)で構成されているうちから期待されていたとすると

まるで、自分が「東大に合格するため」に生まれてきたのだと勘違いを起こします。

 

子供はママの要求をかなえたいと思ってしまいます。

 

ママが「すごい!」「よくできたね!」と言ってくれると、誰だって嬉しいですよね。

「もっと褒められたい」と思って頑張ろうとしますよね。

 

私にとって、幼児の頃から「東大に合格してほしい」と思い、

思いつく限りのたくさんの「頭の体操」を一緒にやることは

決して悪いことではありません。

 

ママが構ってくれないより、

東大合格のためだろうと、なんだろうと

ママと一緒に取り組めることがあるのは楽しいです。

実際に幼稚園に通っていたころにやっていた迷路ドリルなんかは、

「楽しかったママとの思い出」

として、胸の中のアルバムにしまってあります。

 

しかし、同時に

「あれは洗脳だった」

と、今になって思うのです。

 

本当は迷路ドリルでなくたって

ママと一緒に遊ぶことは出来たはずですよね。

 

私にはそれを知る由がありませんでした。

私が知っている、ママと幼児の過ごし方は

「幼児向けドリルを解くこと」

しかなかったんです。

 

私は具体的に東大合格をモットーに教育されてきたわけではありませんが

ある程度の知能レベルを期待されて育ってきた節はあります。

 

私は子供が将来、幼児期を思いだすときに

「ママと一緒にドリルをといている風景」 し か 

思いだせなくなることを非常におそれています。

そしてそれは私より、じじとばばが恐れています。

 

じじばばの教育方針は私が育てられた時と変わりました。

「子供が楽しそうなことを一緒にやる」

というのは変わりませんね。

その点、すごく恵まれていました。

暇で暇で仕方ないなんて、この年齢になるまでありませんでしたからね!

 

変わったのは

「子供でいるうちにしか出来ないことを一緒にやる」

ということですね。

 

勉強は大人になってからも出来ますが

鉄棒やかけっこ、電車遊びに砂遊び、など

大人になってから始めるのは周りの視線や自分の資金力により難しいものもあります。

(体が)成人してから始める砂遊びはなかなか難しいものがありました。

そして自分が遊んでこなかった遊びは、何か正解を求めてしまいます。

私の場合は砂遊びで何をすればいいのか分からない。という穴に落ちました。

なんでもよかったんです。答えは「なんでもあり」だったんです。

そこに気づくまでに約10回は公園の砂場でぼぅっとしておりました。

雨の日は砂場で遊べませんから、10日以上はかかりました。

砂場では子供がやっていることに加担するもよし

型抜きをして「ねぇ、ママこんなの作ったよ!」と童心に帰って自分なりに遊ぶも良し。

 

ママが楽しそうに遊んでいる姿を見るのは、

「ママは私といるだけで楽しそうにしてる!」
と映ると思っています。

 

ママが我慢して私のおやまを大きくしている

のと

ママが楽しそうに私が知らない遊びをしている

のと

あなたはどっちが見たいですか?

 

何も話せない幼児期、とくにイヤイヤ期を乗り越えた先にある

「どんな子育てをするか」

という課題。

 

私は

「その課題は子供が年齢を重ね、経験を重ねていく先々で七変化していくものなのではないか」

と思いました。

 

「東大に合格してほしい」

という、ありそうなテーマを仮定してみましたが

それは「押し付けだから絶対ダメ!」というわけではないこと

分かっていただけたでしょうか?

 

子供と一緒に楽しく取り組めることに迷ったら

ドリルを買ってみるのも、私は「アリ」だと思いますよ。

でも、ドリル「ばっかり」にならないように

くれぐれも注意してくださいね(^^)

 

 

みどり