5月7日、元気に事務所に行きました。('-^*)/

すっかり夏の気候で、浦島太郎さんの気分でした?!

2月13日から、5月6日まで、入院し、リハビリ治療をしておりました。
82年間」の人生で、一番長い入院生活でした。
なんと、83日間でした。

「リハビリは、自分との闘いである」と、言い聞かせ、がんばりました。
完治ではありませんので、今後通院、治療をしながら、機能回復に努めます。

お弟子さんのレッスンの再開、講演の準備と、ぼちぼち活動したいと思っています。


 あの朝、1995年1月17日、午前5時なんぷんだったか?尼崎市の武庫川の近くの公団の団地の4階にいた。「ゴーッ」と言う音より少し早く、カーテンの隙間から、稲光とも一寸違う「閃光」が2度3度・・・

いきなり「ズシーン、ズシーン」と、身体が床下から突き上げらた。寝ている私の上に何か降ってきた。びっくりして触ってみると、ガラスの箱のようだ。
電灯がつかないので、真っ暗だが、人形ケースが3メートルも離れたピアノに上から飛んできたのだ。

 「ドスン」と、寝ていた頭の位置に重たい音がした。これは、窓際のローボードの上のコンボの本体部分、

ご丁寧に片側のスピーカーを引きずっている。
 鉄筋コンクリート4階建ての建物自体がゆっさゆっさと何度も何度も揺れた。

生まれて初めての経験だ。
 
これ以上寝ていたら何が降って来るやら・・・。

 キッチンの向こう側から、連れ合いの悲鳴が「お父さん助けて!」
 

そうだあの部屋には和服ダンスや洋服ダンス、整理ダンスが並んでいる。
たった瞬間にまた大きな揺れが、今度は横揺れだ、長いこと揺れる。
壁伝いに連れ合いの声の方に向かって進む。この辺りに懐中電灯が
 有る筈だ。

「オー、有った!」キッチンは両側から食器棚とが互い違いに倒れ掛かって、 合掌の形になって、その下は、
 磁器陶器ガラス製品の欠片で浅い元は大変だ。


「危ないからこっちに来るなよ、やガラスや、食器の欠片で怪我する、
 危ないよ」 後で判ったが、下の方に雑然とおいてあった丼鉢や、ラーメン用の丼などの安いものは健在で、ワイン・グラスやドイツで買ってきた磁器の、人形などが全部壊れた。、揺れはまだ酷いが、その頃はまだ、しっかり女房だった、連れ合いが、キッチンと、自分の部屋の間の柱に摑まって、と言うか、しがみ付いていた。

 少しづつ、明るくなってきたのと、目が慣れてきたので、あちこち見回すと本棚も何もかも、倒れたり、ひっくり返ったり、いやはや、どうにもこうにも手も付けられない。

 ただ呆然としていると、「親父、大丈夫か?おかんは?」と、次男の声がした。

「うん、大丈夫や、」「そっちは如何や?」「内も大丈夫、」「じゃ、お祖母ちゃんを見に行ってくれ。」「うん、直ぐ見に行ってくる」と自転車で駆け出した。

 「どう?大丈夫?」事務所のマネージャさんの声、見るとご主人と二人で、
「朝ご飯まだでしょう? 何処も皆売り切れが多くて、お水ももう売り切れの所が
多いみたいよ。」

 パンや、サンドイッチとを袋に入れて「朝ご飯にどうぞ」さすがよく気が利く人だ。「ラジオが言ってたけど、神戸の方がもっと凄いらしい。」とのこと。


そうだ 、トランジスターのラジオをかけた。

朝日放送をかけると、道上洋三アナウンサーが絶叫している。あちこちで火事がおきだしたらしい。

 「お祖母ちゃん、無事だった、近所の人たちが心配して面倒見てくれてた。」
と次男が帰ってきた。
 「有難う、俺も一寸見てこよう。」

 阪急電車も、今日は不通だと言うことで、事務所は臨時休業することにした。


 、主要道路は寸断と、緊急自動車が優先で車は使えないので、自転車であちこち見て廻った。

 西宮のお弟子さんの家を慰問した。周囲の豪邸は倒れたり潰れていたが、彼女の家は、屋根瓦が軽い家なので、無事だった。「亡くなった息子が守ってくれたみたい」と言っていた。

 まだ自分の家も片付いてないのに、廻っている間に、・・・・・・自然に歌詞が出来てきた。
あくる日から、救援活動に参加したがその中で出来た歌が、「悲しみの向こうの明日に向かって」である。

1.あの朝 突然 暗闇の中 大地が揺れて 街が崩れた
  我が家も見慣れた 街並みも大きなビルさえ傾き倒れた
  何も知らずに ねむっていた親も子も 年寄りも
  一瞬の間に 崩れ落ちた 家具や 建物の下敷きとなり
  いのちと未来の人生を奪われてしまった

2、あの朝 突然 暗闇の中 炎が上がり 街を襲った
  家も工場も 商店街も 真赤な炎と 黒い煙が
  次から次へ 飲み込むように 何もかも焼き尽くした
  尊いいのちを 失った人の 夢と悲しみを 背負いながら
  今 生きている私たちは 受継いでいこう

B。 愛する人を失った この悲しみは 忘れられない
   だけど もう一度 築き上げよう 私たちのふるさとを
  悲しみと 涙の向こうの明日に向かって
  悲しみと 涙の向こうの明日に向かって

 そして、大阪で「阪神淡路大震災救援コンサートを開き、救援カンパを集めて、松屋町のお菓子の問屋さんで安くして貰いお菓子を一杯買い込んで、最も被害の酷かった東灘区や、須磨区などの、避難所で、出前コンサートをして廻った。
 
 これは、NHKの報道番組で「被災した音楽家が・・・」と何度か報道された。
そんなある日、「ジャズの神様」と言われていた、テナーサックの松本英彦さんから電話が掛かった。


 最初はマネージャーをしていた奥さんの松本佳子さんだったが、途中で英彦さんと変わって、「どうだった?、」


「ハイ我が家も被災したけど大丈夫ですよ。元気です。」


「僕ね、梅田のホテルで、震災救援のチャリティー・コンサートをやるけどさ。

きよっちゃん。一緒に出演してよ。」


「エッ?僕がですか?神様と共演なんて罰が当たりそう!!」


「何を言ってんだよ。ぼくはきよっちゃんの「ブルース」のファンだよ、都合如何?」


「喜んで出させて頂きます。」と言うことで、神様と共演したこともありました。

 今は、松本英彦さんも、そして、ビッグフォーのメンバーだった、ジョージ川口さんも故人になったけど・・ジョージさんは「ヨー、きよし減でやってるか?」と、日本の音楽家でただ一人、何故、僕を呼捨てにしたかと言うと、僕が満州の中学生だった頃、学徒動員で陸軍航空隊に配属されて、飛行機の機体を磨いたり、飛行機を空襲の時に隠す退避壕を掘ったり、特攻隊員の身の回りの世話をしたり、地上の仕事をしていたからです。 


 その頃、ジョージ・川口さんは飛行士で、我々の頭上を飛んでいたのです。だから、上官であるので、威張って「きよし」、そして、戦後は、勿論かれが売れっ子のミュージシャンになっているときまだ学生のファンでしたから・・・・」松本さんもジョージさんも、僕より6歳も年上だから仕方がないけど、数年前に天国に飛び立ちました。


 話は脱線したけど、今は、あの廃墟のようになった大震災の後は、知らない人は、信じられいほどの復興振りで

大震災って何処であったんや?」そろそろ忘れかけててきたようなので、ん」

今年の年賀状で、また一人同期生が死んだのが判った。「さみしー


戸田恵子さんのミュージカル「今の私をカバンにつめて」


大好きな戸田恵子さんの主演ミュージカル「今の私をカバンにつめて」が、10月15日から、19日まで、大阪ビジネスパーク円形ホールで上演中である。

10月16日(土)の昼公演を観劇した。


 大阪公演の時には、できる限り、魅せて頂いている。(この字が相応しい)


 最近はTVのCMにも沢山出演して、ご存知のファンもますます増えたが、 宝塚歌劇や、劇団四季の皆さんを含めて、「ミュージカル・スター」と呼ばれる人は多いが、私は、戸田恵子さんは、現在最高峰の女優であり、歌手であり、舞踊家である、つまり最高のミュージカルスターの一人である、と思う。


 このミュージカルの脚本と作詩はグレッチェン・クライヤー、音楽はナンシー・フォード、翻訳と上演台本は三谷幸喜演出は、G2、音楽監督は千葉一樹、振り付けは、ただこ、植木 豪(PaniCrew)


出演・戸田恵子 入江加奈子 麻生かほ里 植木 豪(PaniCrew) ゲストは 石黒 賢 と豪華メンバーが、ミュージカル愛好家を楽しませてくれる。 (敬称略)


 内容は、アメリカのショー・ビジネスの舞台の裏側を覗かせてくれる、所謂バックステージ・スタイルのミュージカルで、戸田恵子さん演じる、歌手のへザーが、新作の舞台稽古を、石黒賢さん演じるマネージャーに、次々と見せていく。マネージャーと、歌手の、批評や感想のやり取りの面白さ。

 ゲストの石黒さんはなんと言ってもベテランの貫禄が、アメリカのマネージャーの強力さを良く表現していた。


 何といっても、戸田恵子さんの歌手としての実力が魅力であるが、鍛えぬいた踊りのセンスも良い。あのスリムな体形を保ち続けるのには健康が大切。

 大事にして欲しい。今回は恵子さんのお父さんに会った。

私と同じ年と聞いていたけど、私よりはるかに若々しかった。


 共演の入江加奈子さん、麻生かほ里さん、 植木 豪さんなどとのコーラスも良かったし、それぞれの魅力も楽しめた。


 バンドの演奏も中々切れ味の良いサウンドで良かった。

 ギター・松宮幹彦さん、ピアノ・江草啓太さんベース・千葉一樹さん、ドラムス・野呂尚史さんのメンバーだが、江草啓太さんは、旧知の江草啓介さんかと思ったら、若いので、ひょっとしたら息子さんかな? ベースの千葉一樹さんは、さとう宗さんの音楽仲間とのことだった。


 久し振りに、ミュージカルを楽しんだひと時だった。