本来必修の世界史などの履修漏れが、なんと全国で399校の高校で発生しており、このままいくと、単位不足で七万人の高校生卒業できないか、それを回避するために補習をおこなえば受験勉強に支障がでるという実態が明らかになりました。しかも、なかには、必修科目を履修しているかのように偽装した虚偽のカリキュラムを教育委員会に提出している学校も多くみられます。おそらく教育委員会も見てみぬふりしていたのでしょう。高校生の大人不信は頂点に達するでしょう。特に、地方の名門公立高校の必修逃れが著しいようですが、地方議会をはじめ当該県の大学合格者数増への過度な期待と圧力が激化しているなかで、受験に関係のない世界史を切ったのでしょうが、どうあれ教育現場での隠蔽、虚偽は、いただけません。私も、大学の教壇に立ちながら、最近の学生の世界史の基礎知識のあまりの欠如をいぶかしく思っておりましたが、理由がよくわかりました。実は、さらに背景があります。94年の学習指導要領改定で世界史は必修になったわけですが、同時期に改定した、中学校の教科書では、世界の国のことをほとんど教わらないようにしてしまっています。このことが、今の高校生の世界史嫌いの原因ともなっています。さらに、学校側も、教員削減のなかで、実は、世界史の教員の確保も十分できません。そうした要因が複合しながら、必修逃れ・偽装が蔓延していきました。しかし、何のための教育をしているのか?を責任ある立場の方々が考えていただきたかった。子どもたちが、困難苦難を耐え抜き、豊かな人生を送るために必要な力を授けるために、私は教育を施していると私は思って今まで教壇に立ってきました。大学に入ることは、一つの途中経過にすぎません。歴史も知らない薄ぺらい人間を養成し、大学に送り込んでも、すぐにメッキははがれてしまいます。世界史を知らなければ大学に入っても社会科学系の授業はちんぷんかんぷんです。人生を豊かに生き抜くためには、人間とは何かについて、深い洞察力が必要ですが、その洞察力を養う基礎が、歴史と哲学の教育です。教育の本旨を忘れてしまった学校管理者、それを放置した教育委員会、学校をそのように追い込んだ地方議会、そして、94年度から世界史は必修にし、2002年から週五日制を導入しながら、その実行のための資源を現場に供給しなかった中教審・文部科学省の責任も軽くありません。もちろん、世界史の必修や、五日制は悪いことではありませんが、制度変更に伴う現場の負担軽減まで手当していなかった責任は免れません。さらに、このことを何年にも渡って気づかなかった我々政治家、大学関係者、メディア、すべての大人に責任があります。子どもたちに、我々、すべての大人が謝らなければなりません。みんなが、自らを省み、そして、改めて議論を根本からし直すべきです。教育現場の本末転倒の典型事例ですが、こうしたことを一つ一つ明らかになるために、真剣にやったふりではなく、根は深くても、その根源にまで、立ち返って、責任をもって、改善する。その後ろ姿が、次世代を育てるのです。