Jリーグ、鹿島アントラーズが劇的な逆転優勝を遂げました。奇跡的な追い上げで見事優勝の栄冠をつかんだアントラーズと、終始Jリーグ全体を引っ張り、盛り上げてくれたレッズにも、感謝です。最終日のわずか一点で天国と地獄を味わった両チームですが、まさに、スポーツの真髄を改めて痛感させてくれました。死力を尽くして優勝争いを盛り上げてくれた両チームに拍手を送りたいと思います。
私は、サッカー外交推進議員連盟の副会長を仰せつかり、国会議員サッカーチームでは背番号7をいただいております。2006年ドイツ・ワールドカップの最終予選は日本での全試合、足も運ばせていただきました。
私自身、高校2年のときに神戸市一部リーグで優勝し(相手校には後のJリーガーもいましたが・・)、通産省産業政策局勤務時代に、Jリーグ発足を提案したスポーツ産業研究会に携わり、その後も2002年ワールドカップ誘致のお手伝いなどもさせていただき、慶応大学助教授時代には、2002年ワールドカップ日本組織委員会(JAWOC)の委員も務めました。サッカー抜きで私の人生を語ることはできません。
 私が、一番応援してきたチームは、実は、アントラーズで、次は、レッズです。なぜアントラーズか?アントラーズの立ち上げには、私自身、様々な思い出があるからです。Jリーグを創るにあたって、Jリーグの目指すべきチーム像が議論され、三つの条件にまとめられました。即ち、一つは、レベルの高いプレーを見せられる。二つ目は、サッカー専用スタジアムで、サッカーの醍醐味をみじかで楽しんでもらえる。三つ目は、企業主導ではなく、地域主導で、地元の方々(住民・企業・行政)が支えるチーム。でした。
 Jリーグの発足までに、この三条件を兼ね備えたチームを作ろうと多くの関係者が頑張りました。アントラーズの場合、第三条件は、全く問題ありませんでした。第二条件のサッカー専用スタジアムは、当時、茨城県商工部長として通産省から出向していた北畑さん(後の経済産業事務次官)が奔走して、日本初のサッカー専用スタジアム建設が間に合いました。第一条件は、前身の住友金属サッカー部は二部所属でしたが、当時の通産省の仲間も知恵を絞り、ブラジル政府への働きかけなども積極的に行い、ジーコ獲得に成功。アルシンドやレオナルドなどの名選手も来日してくれたおかげでクリアしました。Jリーグ発足時に、三条件をクリアしたのはアントラーズだけでした。当時、三浦知良選手・ラモス選手らを擁し最強とされていた読売ベルディは、第二、第三が欠けていました。特に、企業主導型の運営でした。また、清水エスパルス・浦和レッズも、第一と第三の条件はOKだったのですが、第二条件の専用スタジアムがありませんでした。そうした中で、そして、Jリーグ開幕の1993年の第一ステージは、本命ベルディを抑えて、アントラーズが見事優勝しました。立ち上げのお手伝いを少々させていただいたものとして大変嬉しかったことを思い出しました。
浦和レッズも、2001年秋に埼玉県がアジア一のサッカー専用スタジアムを完成させ(オープン記念の日本・イタリア戦には私もかけつけました)、三条件を一番満たしています。三条件をいち早く満たしたアントラーズと、三条件を最も満たしているレッズが首位争いをしてくれました。当時の考え方が、間違っていなかったことが証明されたシーズンでした。
私の夢は、日本でのワールドカップを再び誘致し、そして、今度は、日本がワールドカップを手にすることです。ちなみに、私は、川口能活選手と宮本恒靖選手のファンです!