本日は、以前、私が教鞭をとっていた神戸の私立高校に通う、高校三年生の進路相談に神戸まで、いってきました。私の東大教養学部での教え子の弟さんでもあるというご縁もあり、東大生も何人か引き連れていってきました。
 高校で一年間の米国留学経験のある彼は、大学進学にあたって、日本の大学にいくべきか?米国の大学にいくべきか?悩んで私に相談をもちかけてきたのですが、数時間、話をした結果、結局は、米国の大学を主に準備をするということになりました。
 最近、米国のアイビーリーグの大学での奨学金制度が、益々、充実しているので、東京で下宿して学ぶのと、米国大学に進学するのと、経済負担は、ほぼ変わらない状況になってきています。今では、米国大学進学は、優秀な日本人高校生の間では、一度は検討する選択肢の一つになってきています。
 彼は、大変に読書家で、さまざまなことを高校生とは思えないほど、深く思考するタイプの高校生で、いろいろ話を進める結果、「人間の幸せとは何か」というテーマについて、哲学、文学、社会学、心理学な視座から、深く洞察してみたいというのが、進学の動機であることが明らかになりました。
 そうした彼の進学動機に応えるという観点からすると、残念ながら、米国の大学を薦めざるをえませんでした。

 日本が米国に劣っているといわざるを得ない点は二つです。
 第一は、友に学ぶ学生の志の違い。日米でいわゆる学力の差はほとんどありません。しかし、学問というものと真剣に取り組んでみたいという志においては日本の学生は劣るといわざるをえません。これは、日本の高校生の問題ではなく、我々大人社会全体の問題です。大学というところ、そもそも、知というものを我々日本人はどのように認識しているのか?「知を探求する」ということは本当に尊いことなんだということの自覚が、我々日本人は希薄です。知の探求や探求者に対して、社会からの評価がまだまだ低い、さらに言えば、揶揄する風潮すらあります。これを改めなければ、この状態は改善されないでしょう。根の深い問題です。
 第二は、指導にあたる日米のそれぞれの教員の学識の幅の広さの差です。すなわち、日米とも、その専門領域における実力や業績の差は、微々たるものですが、それぞれの学者の総合力、学識の幅の広さということになると雲泥の差があるといわざるを得ません。そのことが、基礎的な発見や洞察ということになると露呈してしまうわけですが、そうした意味で、広範な好奇心をもつ彼を満足させるだけの指導者に出会える可能性は日本の大学では低いといわざるを得ないというのが結論です。

私も、何人も、海外で学ぶ若者の進路相談にのってきましたが、日本語を母国語とする日本学生の場合、自然科学ではほぼ問題はありませんが、とりわけ、人文科学では、英語を母国語とするか否かは、決定的なハンディになることは事実ですので、人文科学を中心に学びたい彼のケースは本当に迷いましたが、同行した東大生が「君の期待には、残念ながら今の東大はほとんど応えられないよ」との一言が大きく影響しました。残念ながら私もそれを否定できませんでした。以上のような結論に達しました。
 日本の最高学府のあり方を真剣に考え直さねばと痛感した一日でした。今、対応しておかねば、日本の優秀な頭脳がどんどん18歳で流出してしまいます。