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「気」は生命エネルギー?

歴史学者の澤田洋太郎著『ヤマト国家成立の秘密』にこんな内容のくだりがある。


日本人は「気」という言葉をよく使う。「思う」という代わりに「気がする」と言い、「発見した」の代わりに「気がついた」と表現する。この「気」は、中国の道教思想において、宇宙を満たしている生命エネルギーを指している。


道教と言われても専門家でなければ分らないが、確かに日本語には「気」が多い。元気、本気、人気、景気、雰囲気、気配、気迫、気合と挙げればきりがない。


「病は気から」その一つで、辞書には気の持ちようで病気になると書いてある。つまり日本語の「気」は気分ということになるのだが、澤田氏は「気」は宇宙の生命エネルギーだと言う。


歴史を紐解くと、日本は遠い昔から中国の道教に深い影響を受けてきたことに気付く。

神社の参拝、お札やお守り、巫女、修験道、風水、易学、干支(えと)などがその代表である。


初期の道教には不老不死の仙人を目指す神仙思想が存在した。秦の始皇帝が不老不死の霊薬を東方(日本?)に求めたという徐福伝説がある。霊薬だけではない。仙人になるには、宇宙の生命エネルギーである「気」と心身を一体化させる修行をするという。何だか難しいが、静の修行が禅、動の修行が太極拳と言えば分かりやすいかもしれない。


道教の「気」の概念は、やがて漢方、鍼灸、気功などの古来の医術と結びついた。


鍼灸を例にとると、全身に分布する経穴(ツボ)を結んだ道を経絡(けいらく)と呼ぶ。経絡は「気」の通路であり、「気」の停滞が病気を引き起こすという考えから、ツボを刺激して「気」を調整し健康保持や疾病治療を行う。つまり、東洋医学では「気」を生命の維持に不可欠な要素(生命エネルギー?)として捉えていることが分かる。



話を変えよう


マー君こと田中将大投手は、日本でもメジャーでも気迫で打者を圧倒する。マー君の気迫が球の威力を増す。これも「気」である。


武道ではどうか?


剣道に生涯を捧げた知人は「間合いを詰めるだけで、相手は身動きが取れなくなる」と表現した。剣道の間合いとは互いの剣先が触れ合う空間だが、相手の動きを瞬時に制する「気」が飛び交うという。


空手もそうである。


瀬戸塾師範の瀬戸謙介氏は、選手間の間合 は「気」のコントロールによって決まり、

相手の気を封じることも、そらすこともできると述べている。



まとめると、「気」の正体は宇宙の生命エネルギー、東洋医学では「気」の治療が行われ、勝負の世界では選手同士の「気」がぶつかり合う。


だが、「気」は生命エネルギーと聞いて科学者は反論するだろう。


そのようなエネルギー物質は存在しない。マー君の強い意志が相手に心理的な圧迫感を与えただけ。武道の間合いは選手間の心理的な駆け引きの場で、そこに得別なエネルギーは介在しないと。


「気」を精神的なものに限定すればその通りだが、もっと素直に考えてはどうか?


人間の様々な思いは「気」という何らかのエネルギーに変換されて周囲に伝わり、影響を与えると想定する。マー君と打者の間にも、武道の間合いにも、何らかのエネルギーが存在し、それは人間の意志や思考と関連があると考えれば説明が容易になる。


「気」の存在は勝負の世界に限らない。イエス・キリストが病人に手をかざしたように、心からの祈りは「気」となって病人に安らぎを与え、自然治癒力を高める。「気」は医療の原点でもある。


そもそも東洋の古代人は、「気」のエネルギーは人間を含めた自然界のすべての事象に宿ると考えていた。人間は樹木やサンゴが作った酸素を吸い、大地と海の恵みをいただいて生きている。大自然の「気」のエネルギーによって生命を維持していると言ってもよい。


こうして考えてみると、「気」の概念には古代人の哲学や世界観としての要素があって、現代科学には馴染まない。だから西洋医学が「気」の存在を認めないのも無理はない。



「気」という生命エネルギーが本当に存在するのか?


未知の世界だが、少しずつ考えることにしよう。

ハンドヒーリング

自分が新米の研修医であった頃の話である。


「手かざし」によって病気を治すという教団の幹部が大学病院の特別室に入院した。病状は決して思わしくなかったが、彼は検査や治療の合間を縫っては他の病室を訪れ、次々と患者に治療を施して回った。


困った主治医は上司と共に病室に行き、気持ちはありがたいが、ご自身の治療に専念していただきたいと告げた。


医局はその話題でもちきりとなった。


手かざしで病気を治すと聞いて、多くの医師が眉をひそめた。中には「まず自分を治せばいい」と陰口をたたく者もいた。


医師はエビデンス(科学的根拠)のない治療には見向きもしない。科学で証明されないものは信じない医師の性(さが)である。


が、生命の神秘は奥深い。


こんな話がある。美しい音楽を流すと乳牛の乳が増え、ニワトリが上質の卵を産み、ハウスの野菜がおいしくなり、酵母菌が活発になってうまい酒を造るという。


大脳も聴覚もない野菜や酵母菌に音楽の効果があるのか?


或る研究者 は、酵母菌を活発にしたのは音楽そのものではなく、一定の周波数の音波振動であることを実証した。柔軟な発想は視野を広げる。何事も決めつけない方が賢明である。


病に倒れた者が救いを求めたなら、誰であれ病院は最善を尽くす、もし「手かざし」で病人が楽になるのなら、そこから何かを学べばいいのである。



エトウさんは深く心に残る患者さんの一人である。


彼に肝がんが見つかったのは、自分が大学を辞めて開業する少し前であった。数回の肝動脈塞栓術で腫瘍は一時消失したが、やがて再発して肝臓全体に広がった。残念ながら打つ手はなく、本人の強い希望で一時退院となった。


間もなく娘さんが一人で外来を訪れた。彼女には聴覚障害があったが、私の口を読み取って必死に訴えた。


「父が苦しんでいます。このままでは母も倒れてしまいます。両親は、私がいじめを受けたときも、職場でうつになったときも、全力で支えてくれました。今度は私が頑張ります。父を何とか楽にしてください」


すぐに三人を呼び、痛み緩和ケアの説明をしから診察をした。


肝臓の堅い腫瘍に触れるとエトウさんに苦悶の表情が浮かんだが、そのまま手を当て続けると「あったかくて気持ちいい」と言って目を閉じた。


患部に手を当てると確かに痛みは和らぐが、持続的ではない。入院後、エトウさんにはモルヒネ投与や麻酔薬による神経ブロックが行われた。



ここから本題に入る。


人間の知覚には、痛い部位に手を当てたり擦ったりすると痛みが軽減するという特性がある。神経生理学では、触覚の方が痛覚よりも速い速度で伝わり、その過程で痛覚が抑制されるためと説明する。痒い所を掻くのも同じ理屈である。


エトウさんの場合、さらに心理的な安心感によるプラセボ効果が加わった可能性が高い。以上は西洋医学の考え方である。


方、日本には古くから「手のひら療治」が存在する。レイキもその一つで、アメリカ国立補完代替医療センターでは Reiki として紹介している。


一般にハンドヒーリングと呼ばれるレイキや気功は、手から出る生命エネルギー?による効果と考えられている。この生命エネルギーは東洋医学で言う「気」に相当するが、西洋医学は「気」の存在を認めていない。


日本の医師は伝統医学の中で漢方や鍼灸を一部取り入れているが、レイキや気功に対しては懐疑的である。エビデンスがあれば治療に使う、これが医師の本音である。


「手当て」の効果には、心理的要因、知覚神経の特性、東洋医学で言う「気」などが複雑に関与しているように思える。


次回は、「気」について考えることにする。

イエスの「手当て」

昨年の5月、或るニュース写真 がネットで話題になった。


その日、バチカン・サンピエトロ広場のミサに訪れた車椅子の男性に、ローマ法王が近付いた。法王が男性の頭に両手を当てると、彼は叫ぶように口を開け、体を震わせたという。


その様子を、イタリアのテレビ番組が「法王が悪魔祓いをした」と報じ、バチカン側が「病人のために神に祈っただけ」と反論した。


因みに、聖書のマルコ伝には、けがれた霊に取り憑かれた者をイエスが叱ると、その者は大声をあげて痙攣し、けがれた霊が出ていった、という話がある。


カトリックの教会法にはエクソシズム(悪魔祓い)が定められている。キリスト教宣教の歴史において、異教徒の改宗には大きな精神的混乱が伴い、それを救うエクソシストという役職の司祭が存在したという。くだんの担当ディレクターには、あのオカルト映画のイメージがあったのかもしれない。


さて、改めてネットの写真を見ると、法王は男性の前頭部に両手を軽く当てているように見える。You Tube の動画の方が分り易いかもしれない。



では、人の頭に手を乗せると、どんな効果があるのか?


例えば、親が子供の頭を撫でて微笑むと、子供は安心する。子供が怯えれば、両手で抱き寄せて子供の頭を覆い、顔を自分の胸に埋めて安心させる。但し、この行為は、絶対的な信頼感で結ばれていなければ効果を発揮しない。見ず知らずの男が子供にそうしたら、事件になりかねない。


脳科学にこんな実験がある。


女性が一人で痛み刺激を受ける場合と、恋人と手を繋いで同じ刺激を受ける場合とでは、後者の痛みが弱く感じるという。この現象は、恋人に守られる安心感によって生じた一種のプラセボ反応である。


過去の研究生活で学んだことがある。


実験用のネズミは、研究助手の女性の手の中ではおとなしいが、毎日注射をする私には条件反射的に牙を向ける。そこで、左手でしっぽを持ち上げ、素早く右の脇の下で頭部を覆ってやるとピタリと静かになる。あとは上手に掴んで注射をすれば、ネズミのストレスは最小限で済む。


先の実験で言えば、恋人が手を握り、さらに頭を抱き寄せてあげれば鎮痛効果は増したかもしれない。



さて、車椅子の男性に戻ろう。


彼は敬虔な信者で、はるばるメキシコから参列し、最前列で待っていた。やがて法王を見て胸が高鳴り、法王の手が触れた瞬間、熱い何かが全身を駆け巡り、感動に震えたのである。


ところで、聖書の『マルコ伝』には「病人に手をおけば、いやされる」、『ルカ伝』にも「その上に手を置きていやし給う」とあるように、イエスが手をかざして多くの病人を治した奇蹟が伝えられている。


では、法王は病人に奇跡を起こそうとしたのか?


それは違うだろう。矢内原忠雄氏は『イエス伝』の中で、イエスの使命は、神の国の福音を人々に説くことであり、病気を治すことや奇蹟を起こすことが本来の目的ではないと述べている。


法王は、悪魔祓いをしたのでもなく、奇跡を起こそうとしたのでもない。病人に手を当てて心から祈りを捧げたのである。それは車椅子の男性にとって大きな感動体験となり、そのエネルギーが彼の自然治癒力を推進し、病状が好転したとしても不思議はない。


これが、イエス・キリストが行ったという「手当て」であり、医療の原点でもある。


但し、「手当て」の効果が心理的な作用だけかどうかは、少しずつ考えることにしよう。





過去の研究生活で学んだことがある。