本記事は「崖の上のポニョ」の
考察記事を分割したものです。
分割した際に加筆修正しましたが、内容(言いたいこと)自体は変わっていません。
当然のことながらネタバレ注意
(今回は「ファインディング・ニモ」についても言及しています)
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上記の記事と重複するが、ここにも載せる。
「ポニョ」と「虫眼とアニ眼」(*1)
分かりにくい「ポニョ」も、本書を読むと少しは理解できるようになるかもしれない。というのも、この本で監督は「子供を適度に放任し、水に触れさせ、火もナイフも使えるようにする。自立した強い子を育てる環境・子育てが理想。そして、それには幼稚園と介護施設が隣接し、土がむき出しの地面に、高い建物のない都市設計が必要だ」というようなことを語っているからだ。
どうだろう、まさしく「ポニョ」ではないだろうか。つまり「ポニョ」とは監督のこういった理想(思想)を描いた作品なのである。(ぶっちゃけ、本書と公式サイトで作品の7割はネタバレしている)
(*1) 宮崎駿と養老孟司の対談本。
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「リサが2人を置いて行った理由」再考(2015年3月4日追記)
初見では「なんで置いて行ったの?こういう時って普通、子供は連れて行くもんじゃないの?こんな小さな子ならなおさら」と思ったけれど、よくよく考えてみれば、あの時点では「向かった先」と「崖の上の家」どちらがより安全かは分からなかった。
話を整理しよう。リサが一人家を出たのは避難ではなく確認のためである(避難であれば子供たちも連れて行った)。避難は家に帰った時点で完了している。だから新しい情報が入るまでは、家から動くつもりはなかった(のんびり飲食するシーンも、そう考えると合点がいく)。しかし動く人工灯らしきものを発見し(つまり新しい情報が入り)、その確認のためにリサは一人家を出る。多分、リサは確認後すぐ帰ってくるつもりだったが、向かった先でマーレたちと出会い、彼らの話を聞き、2人を待つことにした、というのがその後の物語の展開である。
ここから推測するに、リサは「家は安全で、かつ宗介なら子供2人にしても大丈夫だ」と判断したということが分かる。そこからさらに、リサは自分と自分の家と宗介とポニョを(端的に言えば世界を)信頼していた、ということをも推理できる。でなければ、家に帰らなかったし、子供も置いていかなかったし、そもそもその場から一歩も動けなかったはずだ。(*2)
もしもリサと宗介たちの別行動に、2人の意思が介入していなかったなら(たとえば嵐ではぐれるとか)、このシーンもすんなり受け入れられただろう。だが、そう描写しなかった。それはなぜか。
家に帰るかどうか、家を出るかどうか、子供を連れて行くかどうか、2人を待つかどうか(マーレを信じるかどうか)、そのどれもリサは不可抗力ではなく能動的に選択している。その選択のどれにも確たる根拠はない。が、有事の際に確たる根拠などない(つまりリサは絶えず情報不足だったということ)。そんな状況で能動的に動くには直感と決断に頼るしかない。その直感と決断を支えるのは、自分と他者とその他、すなわち世界に対する信頼と勇気と覚悟である。(*3)
つまり、このシーンは世界の無常(何でも起こり、かついつ何が起こるか分からない世界)と、そんな世界に対する信頼と覚悟と勇気(それはつまるところ人間の主体性である)を婉曲的に、顕著に描いたシーンなのだ。監督が表現したかったのは、人間が不可抗力や不条理に流される様ではなく、人間の能動性と主体性(とどのつまりは「人間(世界)は自由である」ということ)の方だった。だからリサと宗介は嵐ではぐれなかったのである。(*4)(*5)
(*2) リサの様子(描写)からして、家に帰ったのは衝動的な部分もあったかもしれないが、子供2人を置いていったのは落ち着いた上での冷静な判断であるように見える。
(*3) 普通は、親は子供を自分の傍に置いておきたいし、子供は親の傍にいたい。親は自分の目の届かない所に子供だけにするのは不安である。実際危険もある。しかしその不安や危険には(信頼同様)、絶対的な根拠はない。災害時に移動して親子共々危険な目に遭う場合だってあるのだから。
(*4) リサと宗介とポニョとマーレは、全編を通して言葉ではなく行動でそれらを表している。宗介が置いていかれることを受け入れたのも、リサ同様に、リサを、世界を、根拠なく、しかし確かな実感を持って信じていたからである。またポニョとマーレの姿が安定しないのも「無常」すなわち「ダイナミック(流動)」と符合する。「そんな二人に対してどう思ったか」は、そのまま「異質なもの、不安定なものに対してどう思うか」に相当する。つまり、この作品は視聴者の不思議感と柔軟性を試してくるのである。
(*5) このシーンに対する違和感や抵抗感の正体は、説明不足はもちろんだけれど、監督の何かしらの作為が、あまりに露骨すぎたせいかもしれない。つまりやっぱり演出で下手うったってこと。でも、一番考えてほしいシーンだから、わざとそうしたのかもしれないしなぁ。まぁ、どちらにせよ作品解釈のキーになるシーンではあります。
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「母と子の物語」再考(2015年6月19日追記)
「ポニョ」という作品は‘母と子の物語’なのではなく「試練を与える者とそれを乗り越える者の物語」なのではないか、と一時は思ったけれど、「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」ということわざもあるように、親とは時に試練を与える者になる(上記のシーンで、リサは親から試練を与える者へと変化している)。だから、やはり「ポニョ」は紛うかたなき‘母と子の物語’だ。
上記でも触れたように、監督の理想の子育ては適度な放任である。この観点から見れば、「ポニョ」は過保護と過干渉、そして疑心暗鬼を批判した作品だということが分かる。つまり「ポニョ」は現代版「人魚姫」ではなく、監督の理想の親子関係と子育てを描いた監督版「ファインディング・ニモ」なのだ。
我が子を心配し軟禁するフジモトは「ニモ」で言うところのマーリンで、我が子を信じ放任するリサやマーレは「ニモ」でいうところのコーラルやドリーなのだ。つまり、親が不安症から脱却する様を、心配性な父親側から明快に描いたのが「ニモ」で、自由奔放な肝っ玉母ちゃん側から不明瞭に描いたのが「ポニョ」なのである(*6)。そう考えるとリサ・宗介親子の性格や関係性が一種独特なのにも合点がいく。
「子供に名前で呼ばれていること」や「運転の荒っぽさ」や「耕一(伴侶)に対する大人げない態度」やそれを子供に見せることや「災害時の大胆な行動」や「子供に対する放任」は、すべてリサの自由奔放さを表す。そして放任はリサなりの教育方針であり、実際宗介はしっかりしている。それがリサの教育の賜物なのか、それとも生まれつきの資質によるものなのか、それは検証不可能だ。しかし、少なくともリサは宗介を逞しい子だと理解していた(拗ねるリサを宗介が宥めるシーンでもそれは窺える)。そして(繰り返しになるが)、だからこそあえて置いていったのだ、とも解釈できるのである。(*7)
(*6) 両作品が実によく似ていることに、これを書いていて気が付いた。その中でも従来のステレオタイプな母親像(心配性)と父親像(自由闊達)が、両作品とも逆転しているのが、なんとも興味深い。
(*7) 余談だが、「ポニョ」の女性像には反感を持つが「風立ちぬ」には持たない、と言う人は、きっと保守的な人間である。
・・・
まとめ
世界は無常かつ自由であるということを描き、過保護と過干渉と疑心暗鬼を批判し、人間とそれ以外を積極的に肯定した、希望あふるる前向きな作品、それが「ポニョ」だ。
この解釈は、「ポニョ」の都市伝説、オカルトチックで怖いだけの「あの世の話」(「死後の世界の物語」、嵐のあとの登場人物はみんな死人)説を否定する。なぜなら「ポニョ」とは、今を生きる子供たち、産まれたばかりの赤ん坊、そしてこれから産まれてくるまだ見ぬ子供たちに贈られた、祝福の物語なのだから。(そもそも「ポニョ」のキャッチコピーは‘生まれてきてよかった。'である)
以上を総合的に考えてはじめて、あの物語の筋にはなんの必要性もない赤ん坊のシーンの意味も、分かってくるのである。
・・・
と、ここまでは「ポニョ」の良いところについて、次は「ポニョ」の許しがたい欠点について書きました(辛口注意)。→『
「ポニョ」と「人魚姫」と「ニモ」(ついでに「リトル・マーメイド」)|宮崎駿の浅はかさ』
さらに続き(これで最後です)。→「
アニミズムの申し子|続・宮崎駿の浅はかさ」(2015年9月26日追記)
・・・ ・・・ ・・・
参考アニメ
ディズニー/ピクサー「ファイティング・ニモ」 監督:アンドリュー・スタントン 2003年
・・・
参考文献
「虫眼とアニ眼」養老孟司・宮崎駿 新潮社 2002年7月
///
青空文庫 www.aozora.gr.jp
「
人魚のひいさま」アンデルセン(1836年発表)
楠山正雄訳「新訳アンデルセン童話集第一巻」同和春秋社 1955年7月20日初版発行
www.aozora.gr.jp/cards/000019/files/42383_21527.html
///
公式サイト「
崖の上のポニョ」www.ghibli.jp/ponyo(2014年9月8日アクセス)
「作品の内容の解説」より以下引用
P1‘
海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語。同時に、5歳の宗介が約束を守りぬく物語でもある。アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し’(中略)‘
空間をデフォルメし、絵柄を大胆にデフォルメして、’(中略)‘
少年と少女、愛と責任、海と生命、これ等初源に属するものをためらわずに描いて、神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである。’
P8‘
どんな時代であれ、5歳の少年から見た 世界は美しく生きるに値する。
2008年夏、日本だけでなく世界の人々が自信を失い、経済政策の行き詰まり、食糧や原油価格の高騰、地球の温暖化問題など、解決の糸口さえ見つけられず、不安を抱きながら漫然と生きている現代。まさに“神経症と不安の時代”、この作品の企画を書いた宮崎駿は、まもなくこのような時代がやってくることを予見していたかのように本作品を作りました。’
以上引用終わり
///
シネマトゥデイ www.cinematoday.jp/index.html
「
宮崎駿監督もお手上げ!サイン攻撃で会場パニック!【第65回ヴェネチア国際映画祭】」
(取材・文:中山治美)2008年8月31日
www.cinematoday.jp/page/N0015075(2015年6月18日アクセス) より以下引用
‘
宮崎監督は、本作について「わたしの周囲のスタッフに次々と赤ちゃんが生まれて、産まれて来た子どもが初めて観る映画を作ろうと、コレを作りました。物語の基礎となっているのは、“異種婚礼譚”。’
以上引用終わり
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御坊哲のおもいつくまま ameblo.jp/toorisugari-ossan/
「
無常といふ事」2011-03-22 13:51:08
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「
ドストエフスキーと無常観」2014-03-06 18:30:00
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「
無常と妙について」2014-03-07 10:58:21
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懐疑について」2010-01-22 11:38:10
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2015年9月26日推敲追記 2015年10月5日推敲・参考に内田「歩哨」追記