精神と身体はいつ分かれたのだろう。
どこかで人間になる何かが、知性を生み出した段階で、思考の存在が現れ、そこで分かれた、というのが率直に思ったことだ。

精神と身体は分けて話されるし、捉えられる。
実感としては全くそんなことなく、ほとんど同一くらいにつながってる。

このへんの感覚が人より敏感とか言われることが多い。
これに関しては先天的な感覚ももちろんだし、単に意識的なものだったり、癖みたいなことも大きいと思う。
思考なんてほぼほぼ生きてきた布石を集めて混ぜてできた手癖みたいなもんなんだろうな、と段々と思い始めた。
その混ざる行為にすら手癖がついてしまうから、分かりにくく存在すると思う。


身体と精神がくっつきすぎてどうしようもなくなる。この感覚が最近本当に強い。
強烈に暴力的にこの感覚を感じる時も、ある。
それが辛い、とかではなくて本当にどうしようもない、しか今のところすぐに言えない。

そのうちの一つが移動だ。
映画から、物理的な移動が精神的な移動の暗示というとは一つ手段的に覚えた。
それはスクリーン上でのみに起きてるわけじゃない。

一点に止まって考え、言葉を発し続け、受け取り続けた時、徐々に頭の中の整理がつかなくなってくる。
思考が分散しやすい癖も関係してるんだろうな、と思いつつ
散らばり続けて、無理やり組み立てた言葉はどこか宙に浮いていて心地が悪い。
多分自分の今1番思ってるところ、少しずつズレてる。なんとか修正しようとする度に遠くなる感覚は、切れないカッターを紙に当て続けてボロボロ崩れていくように感じる。

上手く自分の感じてることも、思ってることも喋れなくなってきてるし、誰かの手から出た文字も、口から出された声もぼんやり遠くなっていってる。
モヤついてはっきり不安とも言えない中で視力が奪われて行く時、
どこかへと移動するとその霧を知らぬ間に抜けている。

切り替えとかリフレッシュ、気晴らし的な言葉で片付けられる話だけど、なんでそうなるのかを私は感覚で理解したがる癖があると思う。
というかそれしか理解の方法がなくてやってる。

移動方法は歩くのでも、自転車でも、電車でも、なんでもいい。
それぞれに心地よさもあるし、ちょっとの居心地の悪さもある。
移動しながら口に出てくる言葉はどこか地に足がついていて安心する。
自分の感覚がそのまま言葉をなっているようだ。
誰かの文字や言葉も、受け取って頭に入れて一緒に考えられてる。
バラバラと浮いた言葉を目で追って、混乱することなく、自分の頭に取り込んでいけている、となる。

思考だけ、精神だけを進めて、身体を置いて行くことはできない。反対も。
移動しながらの思考ほど進むものも、素直なのもないと感じる。


同時進行が苦手で単純に思考の幅数が減っている可能性もないとは言い切れない。
それはそれで身体の動きを入れた途端に、精神の動きが減少していて、やっぱりつながってるとも思える。

さっきまで整ってた言葉が打てなくなってきたなと思った今も横たわって物理、身体移動を中断したからだろう。