13年ぶりに、三光神社に参拝しました。
鳥居
三光神社合祀社
野見宿禰社、武内宿禰社、主守稲荷社
真田幸村像
かつてこの一帯には真田丸だったそうです
真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。HPより
拝殿
三光神社
反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の西にある円珠庵(鎌八幡)の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。
中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻の三光宮を勧請し、そちらの方が有名になった。1882年(明治15年)の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。1908年(明治41年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出丸である「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。境内には大坂夏の陣図屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁が造ったものではなく、真田丸を攻めた前田利常軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。
御朱印