東京都港区三田 正覚院 福島正則供養塔・福島正利墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

神社仏閣を参拝しております。
休みを利用し、地方にも遠征をしております。

最近は、歴史上の人物の墓や著名人の墓参りが主に成りつつあります。
基本的に、神社仏閣巡りの方•墓巡りの方のみ承認します。
スピリチュアル系は、拒否しますのでご承知下さい。

今回は、戦国時代の福島正則親子です。

福島正則の母親は、豊臣秀吉の母 大政所になります。

 

福島正則とは

安土桃山時代の武将。永禄4年尾国海東郡二寺村に生まれる。幼名市松。父は正信、母は豊臣秀吉の叔母木下氏という。家業は桶屋であったともいう。幼少より秀吉に近侍。1578年(天正6)秀吉の小姓衆として播磨国三木城攻略に従軍、初めて功名をあげた。その後も秀吉の旗下として山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手の合戦などで武名をとどろかす。1585年従五位下左衛門尉に任ぜられ、以後左衛門大夫正則と名のる。1587年秀吉の九州征服に従い、同年伊予国において11万石を領し、湯築城に入る。のち国分城に移る。その後小田原征伐、朝鮮出兵などに従軍。1595年(文禄4)尾張国清須24万石に転じた。関ヶ原の戦いには徳川家康に味方し戦功をたて、安芸・備後両国49万8000石の大名となり広島城に入る。その後広島城の修築を無断で行ったとして1619年(元和5)改易され、信濃・越後国内で4万5000石を与えられ、高井野に蟄居した。翌年、子忠勝の死により越後の2万5000石を返上。『徳川実紀』には資性強暴、悪業を行い大名として失格者、そのうえ反逆のうわさがあると記されているから、そこらに改易の真意があったといえよう。広島城主などとしての政治経済・文化政策からみると、実際の正則は能力のある優れた人物であったことが推察される。寛永元年7月高井野で没した。このとき幕府検使の到着前に遺骸を荼毘に付したため、遺領は収公、廃藩となった。墓は京都妙心寺塔頭海福院に、霊廟は岩松院に、屋敷跡は高山村にある。

福島正利とは

慶長6年生まれ。福島正則の4男。寛永元年蟄居中の正則が死去した際、検使到着前の火葬をとがめられて信濃高井野の遺領は没収され、あらためて川中島に3000石をあたえられた。寛永14年12月8日死去。37歳。嗣子なく家はたえた。