豊国神社から、智積院に移動しました。
総門
真言宗智山派総本山
大玄関
金堂
弘法大師像
大師堂
稚児大師像
明王殿
智積院由緒
智積院は、もともと紀伊国根来にある大伝法院の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大伝法院を根来に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので根来山内の学問所であった。
近世に入ると根来寺は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで全山炎上した。当時の根来寺には2,700もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は根来攻めが行われる前に弟子たちを引き連れて寺を脱出し、高野山に逃れた。その後、玄宥は新義真言宗の法灯を守るために智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国社の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた。これにより、智積院はようやく復興を遂げた。
3代目住職日誉の代、慶長20年(1615年)に豊臣氏が滅ぼされると、江戸幕府から隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺を与えられて吸収合併し、さらに規模を拡大させ、山号を現在も根来に名を残す山の五百佛山、復興後の智積院の寺号を根来寺とした。祥雲寺は、豊臣秀吉が3歳で死去した愛児鶴松の菩提を弔う為、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたものである。この客殿は天和2年(1682年)7月の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせた為と推定されている。
金堂は元禄14年(1701年)3月、第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川綱吉母)より与えられた金千両を基にし、学侶からの寄付金を資金として宝永2年(1705年)春に建立された。しかし、1882年(明治15年)に火災により焼失した。1947年(昭和22年)には講堂が火災にあい、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失している。
金堂は1975年(昭和50年)に再建され、次いで講堂も1995年(平成7年)に再建された。その際、講堂再建に先だって1992年(平成4年)に発掘調査を実施したところ、その結果講堂の跡地の下から祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことが改めて裏付けられた。
1970年(昭和45年)1月3日、隣接する京都市立芸術大学南校舎から出火した際には、智積院宝物殿(当時)に飛び火して大屋根を焦がしている。
御朱印