静岡県静岡市葵区大岩町 臨済寺 今川氏輝・義元墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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今回は、今川義元の墓参りです。

 

今川義元は、桶狭間で亡くなりましたが愛知・静岡に10ヶ所墓所があります。

首は首見聞があり信長のもとに、胴は今川塚に埋められたのでは。

 

義元の首ですが、鳴海城を拠点に、織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も岡部元信は抵抗し続け、信長が差し向けた部隊をことごとく撃退した。そして、岡部元信が主君・今川義元の首と引き換えに開城を申し入れたことに、織田信長はその忠義に感動して今川義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わる。

 

首は、腐敗し駿府に戻る途中の東向寺に埋葬し遺髪を駿府に持ち回り臨済寺に。

 

 

 

 

 

 

 

今川氏輝とは

戦国時代の武将。今川氏親の長男 母は中御門宣胤の娘。幼名竜王丸、通称は五郎。大永5(1525)年 元服して氏輝と名乗り、翌年父の死によって家督を継ぐが、14歳という若さのため実際の国政は母の寿桂尼が執り、氏輝の文書発給がみられるのは、それから2年後の同8年3月からである。天文1(1532)年あたりから独自の領国支配がみられ、江尻湊の振興をはかる経済政策・検地の施行、さらに御馬廻衆の創設などに取りくみ、甲斐の武田信虎と戦ったりしているが、同5年3月17日 24歳の若さで突然没した。同日、すぐ下の弟彦五郎も没しており、駿府今川館において何らかの異変が起こった可能性も指摘されている。氏輝が結婚していたかどうかは不明であるが、少なくとも嗣子はなく氏輝の弟である玄広恵探と梅岳承芳が家督を争う花倉の乱がおきた。

 

今川義元とは

戦国大名。今川氏親の三男。母は中御門宣胤。幼名は芳菊丸。最初駿河国富士郡今泉の善徳寺の僧として梅岳承芳と称し、一時は京都建仁寺、妙心寺で修養を重ねた。1536年(天文5)4月に兄氏輝が早世すると異母兄の玄広恵探と家督を争い、同年6月これを倒し今川家を継ぎ、還俗して義元と名のった。翌年2月、武田信虎の娘をめとり同盟を結んだが、これを契機に、従来同盟関係にあった北条氏綱が駿河東部に侵攻したため、以後富士川以東の支配をめぐって戦い、45年同地域の支配を回復する。一方、尾張の織田信秀の勢力拡大により三河松平氏が圧迫されると、これを援助し三河へ出兵、42年、48年の小豆坂合戦をはじめ、織田氏としばしば戦っている。この過程で東三河の吉田城を制圧、49年には松平氏の岡崎城を占領し、ついで織田氏の支城となっていた安祥城を奪取し、その際の人質交換により織田氏のもとにいた松平竹千代を駿府に迎えた。天文(1532~55)末期にはそれまでの駿河、遠江に加えて、ほぼ三河の領国化に成功し、領国の拡大とともに支配体制を着実に強化していった。検地の実施、家臣団・寺社統制、商工業・伝馬政策、鉱山開発などはその例であり、53年制定の仮名目録追加第20条にみられる「只今はをしなべて自分の力量を以て国の法度を申付」という一節は、東海一の戦国大名としての自信を表している。また西進を目ざす義元は領国東部の政治的安定を意図し、54年には政略結婚による北条氏康、武田信玄との三者同盟を完成させ、さらに58年(永禄1)には駿遠支配を子息氏真に分掌させ、自らは三河支配と尾張領国化を策した。今川氏の発展はこうした一連の内政と外交の充実、連携に基因していたといえる。しかし60年5月、駿遠三の兵力を動員し尾張へ侵入した義元は、織田方の丸根・鷲津砦を陥落させ、同月19日、本陣を桶狭間に移したところで織田信長の急襲を受け、壮烈な戦死を遂げた。法名天沢寺殿秀峰哲公大居士。