新潟県上越市中門前 林泉寺 上杉謙信墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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戦国武将の墓参り、今回は上杉謙信の墓参りです。

file-88 古文書からみる上杉謙信 - 新潟文化物語

上杉謙信とは

戦国時代の越後の武将、戦国大名の雄。近世上杉家米沢藩の祖。本姓は平姓長尾氏、父は越後国の守護上杉氏の守護代で頸城春日山城の城主長尾為景(ためかげ)、母はその一族で古志栖吉城の城主長尾顕吉の娘である。享禄3年正月21日生まれ。初名を生まれた寅年にちなんで虎千代、ついで平三景虎といい、のち政虎、輝虎と名を変え、また道号は初め宗心、1570年(元亀1)から不識庵謙信という。

 1507年(永正4)父為景は守護上杉房能を殺し、上杉一族の上条定実を傀儡守護にたてて、実質的な越後国主となったことから、典型的な下剋上の人として知られる。1536年(天文5)その死後は嫡子晴景が後を継ぐが、国内は各地に分立対抗する長尾一族の勢力ごとに分裂し戦乱が続いた。弟の景虎は春日山城下の臨済宗林泉寺の天室光育に預けられるが、のち母方の古志長尾家を頼って栃尾城に移り、中越地方のなかばを掌握して、中越魚沼地方の上田坂戸城にいる義兄の長尾政景や、上越地方を押さえる実兄晴景の勢力を圧倒する。1548年末には兄の養子となる形で春日山城に入り、1551年には政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現し、政景の子喜平次を養子にすると、その勢威で下越揚北衆といわれた豪族領主たちをも率いて、以後、多方面にわたる外征に転ずる。まず1552年、小田原の北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を助けて関東に兵を出し、上洛して後奈良天皇から従五位下、弾正少弼に任ぜられたのち、越山といわれた関東出兵は、1569年(永禄12)まで17年間にわたって続けられ、また、甲斐の武田信玄に追われた小笠原長時、村上義清らを助けた北信濃出兵は、川中島の戦いといわれ、1564年まで繰り返された。とくに1561年9月の川中島八幡原での謙信・信玄両雄激突は戦史に有名であるが、戦後処理で信玄はこの地方を知行地として家臣に分配する宛行状を出しているのに、謙信はただ戦功をねぎらう感状を出しているにすぎないという事実からみると、勝利は信玄のものであったと推定される。

 1559年上洛し将軍足利義輝に会い、1560年からは北陸にも進出し、一向一揆との戦いが始まる。1561年北条氏を小田原の本城まで追い詰めるが破れず、帰途に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を受け継ぐ儀式を挙行して上杉政虎と称し、足利藤氏を鎌倉公方に擁し厩橋城を北関東制圧の拠点とした。1569年には北条氏康に請われて上野一国の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣を条件に講和し、武田信玄を共同の敵とするが、1573年(天正1)信玄の死後は、北陸から朝倉義景や一向一揆を滅ぼして国境に迫った織田信長軍との対決が大きな課題となる。天正6年3月13日中気により春日山城中で没した。49歳であった。軍事的行動半径の広さや神仏信仰、名分の重視などによって知られる。法名は不識院殿真光謙信、高野山清浄心院に葬る。

 終生妻をめとらず、死の直後から2人の養子、春日山城に拠った景勝、府内御館に拠った景虎の間で越後を二分した抗争3年にわたる御館の乱が続き、かつての豪族連合的な謙信の支配の形は一変し、争乱に勝った景勝の下で、その実家上田長尾家の勢力と新参の北信衆を中心とした独裁が実現する。