けさの朝刊に

種田山頭火と尾崎放哉

作者混同の不思議という

記事がありました。

 

ふたりの名前を見て

父の著者にも

たびたび登場したことを

思い出し 

何冊か 父の本を出して

読んでみました

 

俳句が趣味だった父

なぜ このふたりに

心酔したのだろうか

 

自由律俳句と放浪俳人の

生き方が父にとって

共感するところが

あったからなのか・・・

 

また一方では

同じように家を捨て

ふるさとを捨てた良寛の

素晴らしさを著わした

文章が沢山ありました

 

有名な放哉の

「咳をしても ひとり」には

父は

小豆島での句作で

妻を捨て 家を捨てた孤独感が

よく表現されている

 

しかし そこには 

自分が捨てたのだという意識が

あまりにもはっきりしていて

すべてを捨てきって

ありのままに暮らした

良寛には

遠く及ばないと結んでいる

 

すべてを捨てきったとき

想像もできないような

こころの豊かさが

生まれてくる

それは わかっている

しかし この道をゆくことは

とても むつかしい

<まかせる> ということから

始めるよりほかに

よい方法は見当らない

 ・・・とも書いてる

 

 

この年齢になった

いまこそ

父と いろいろ

話が出来たらな~って

思う