専門家の無能さ


精神病の治療中、行き詰まる事がよくある。誰も解決していない問題に取り組んでいるのだから当然である。しかしそこに間違った理由付けをするなら、当然最弱者のせいになる。つまりお前は馬鹿だ、病気だ、頭がおかしいとなる。行き詰まる原因は治療者も同じ問題を抱えているからだ。つまり雪国のホワイトアウトの様に明暗がはっきりせず、自分がどこに居るのかわからなくなる。


三大聖人


イエスは神の子であるにも関わらず、人間から洗礼を受けた。モーセはファラオに成れた身分を捨て、奴隷の民に寄り添った。釈迦は釈迦族の王にられる身分であったが、門前で死んでいる民から無情を知り修行の旅に出た。

成長とは階段を登ることではない。どこまでも降りて行く事だ。人が真に何かを学べば、より一層解らないものが見えてくる。つまり学べば学ぶ程、自分の無知さを知る。ソクラテスの無知の知である。

人は考える葦である。人が考えなくなってしまえば、ただ風に揺られるだけの茎でしかない。

これ程まで偉大な賢者の言葉があるにも関わらず、人は何故間違え罪を犯すのだろうか?それは何かに依存して自ら考える事を止めたからだ。精神科医でいえば、現代医学に依存し自らの頭でものを考えなくなってしまったからだ。自分は優秀だ。自分は価値がある。そう思っているのならば、自ら苦労する事はないだろう。なんせ価値ある人間なのだから。


「医学で精神病が解明されていないのだから解る訳がない」

「保険制度や医療制度がある以上、一介の医者には何も出来ない」


精神科医は、何故想像実験をしないのだろうか?スマホのナビぐらい使った事があるだろうに。


人格統合


解離性同一性障害の治療で、人格統合を主軸に置く治し方がある。虐待の辛い記憶が故、無理をして記憶を繋げる必要は無いのでは?という意見も存在する。しかし人格統合とは記憶が繋がれば良いという理屈では決してない。健常者であっても、ありのままを記憶していることは稀である。麓で観ている山でさえ、人には大きく目に映る。

事実を受け入れる事は勇気を必要とするし、正しく記憶する為には苦労を伴う。記憶を維持し続ける為には清らかさが必要だ。たかが記憶であれど、それを維持する為には相当なエネルギーを必要とする。間違った記憶を再構築することですら多大な苦労を伴いう。歴史は争いの勝者の都合の良い解釈で作られる。それと同じだ。正しさでは無いのだ。

人格統合とは記憶をどう解釈してその人の人生に活かすか、或いは社会(人々)にどう影響を与えるかだ。人格統合否定派はメンタルリテラシーが低いだけである。つまり記憶から逃げているのだ。逃げている事こそ真実が隠れている。そこに価値があるのだ。神は天には存在しない。哀れみ深く人の奥底に潜んでいる。


「私は産まれた場所が悪かっただけ」


人格統合の治療は麻酔の無い外科手術の様だ。辛い虐待を再体験しなければいけない。それを乗り越えた彼女の言葉が私を変えた。彼女は誰のせいにもしない答えを見つけ記憶を繋げた。御言葉に等しい。私にとって彼女はマグダラのマリアである。

薬漬けにし、死んでもらうだけの現代の精神医療において、これほどの答えを出せる専門家が存在するのだろうか?自分の問題を立場の弱い患者のせいにしてしまう。まるで不倫の嫉妬からくる石打ちの刑の様だ。虐待の被害者は、どれだけ他人の苦しみを背負えば救われるのだろうか?