ブラジル人の間に「日本病」という言葉があるそうだ。出稼ぎに来たブラジル人が日本の便利で安全な生活になれてしまい、家族の待つブラジルへ帰る事が出来なくなってしまった状態をいう。家族愛よりも豊かな生活を優先してしまった病気だと解釈できる。愛を最優先しない事が病気なのだ。カトリックの国らしく、愛に博識で経済や治安は最悪だ。


私は豊臣秀吉の辞世の句がどうも引っ掛かる。なるほど!とは思えない。この辞世の句は日本人を現しているのだと思う。


つゆとをち つゆときへにし わがみかな 

なにわの事も ゆめの又ゆめ


葉から優しく滴り落ちる水滴の様に自分は産まれ、土に弾かれる様に散る水滴の様に逝く。人生とはそれだけ儚いものであって、天下取りも刹那の夢の様であった。私はそう解釈する。

多くの人に幼児期健忘があり、日本人は高齢期にボケるか子どもの様になってしまう。初め良ければ全て良しと云う言葉もあるが、日本人には初めと終わりに記憶がない。これが日本人の人生なのか?と、思ってしまう。

誰でも自分の死が怖い筈だ。愛する人の死も辛い。しかし初めと終わりの記憶が無いのならば、恐怖も解離してしまい、生きる意味も無くなってしまうのでは無いか?だとしたら、不安や恐怖を感じず、なんでも自己実現できる筈だ。つまり四苦八苦である、産まれた苦しみ、病む苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみ、これら人に平等にある苦しみすら感じる事が出来ず、人生が夢の又夢となる。涅槃の境地と似ているがただの解離である。苦しみを乗り越えた先にある涅槃寂静では無く、麻薬の様な世界観だ。


日本は明治維新や戦後の経済発展に見られる様な急激な成長をする。まるで麻薬の様だ。それは自らの意思では無く、止むに止まれてだ。その他力本願的な行いによって、一番大切なものを置いてきてしまった。禅宗では経典よりも伝法相乗を大切にする。師弟関係の中で、一器の器から一器の器へ移すが如くである。


人は雫では無いし、人生は夢では無い。人生とは聖母に命を吹き込まれ、凶弾に倒れ聖母の胸で逝くピエタ像だ。ただ、人は何かの原因によって大切な記憶が繋がっていないだけだ。秀吉では天下という麻薬に依存し、信長は自分が神であった。真田は家康に服従し今まで生き残った。どれが正解なのかは解らないが、血が途絶えない事も正解だし、日本人の歴史に心に生きる事も正解なのだと思う。


精神病とは人間が同じ魚に様々な名前をつけた出世魚の様なものであり、神から見たら病気でも試練でも無い。古来日本人は結び目に神が宿ると考えた。一人の人生は一本の藁の様である。その藁を束ね、一本の縄にしたものがしめ縄だ。一人の人生とはその人のものでは無い。脈々と30億年、生命が繋がってきた証だ。