昨今、EVの未熟さが露呈して政策を改める国が多い様だ。よってトヨタ自動車のEVへ全振りしないハイブリッド車の評価がうなぎのぼりだ。しかし日本の景気が良かった時代はでは、あれ程トヨタ自動車の悪口を言っていた日本人はどこへ行ってしまったのだろうか?都合よく親を自慢したり、都合が悪くなると親を罵倒する現代の糞ガキの様だ。


日本人は0から1を作れないとか、車ぐらいの部品点数だったら良い物は作れるけど、ロケットの様な部品点数の多い機械は不向きだと、昔外国人から言われた。確かに一理は有る。日本人は明治維新以降、富国強兵の為外国の学問や文化、工業を多く学び取り入れて急激に近代化した。決して0から築き上げた技術では無い。しかし物真似だからといって、決してパクリでは無い。相手の尊敬や敬意は持っていた筈だ。中国や韓国人の様に時が来れば模範者をさげすむ様な事はしない。漢字は日本起源だとは誰も思ってはいない。むしろ漢字を書かずに忘れてしまう自分を恥じている。この謙虚で真面目で勤勉な日本人こそが、日本人のアイデンティティなのでは無いだろうか?悪く言えば、本来自慢しても良い筈のプライドに気付かず、強烈な自己憐憫に陥っている様に私は感じる。


日本は、戦争よりも災害が多い国である。これ程自然が豊かで、山里を守っている国は少ないだろう。水も安全も清潔感もタダの様だ。沢山の自然の恵みを受けた反面、大自然に命を奪われてきた事実もある。しかし人は自然を憎む事なく諸行無常を感じ続けてきた長い歴史が日本にはある。明治維新以降の近代史は日本の長い歴史から観たら刹那である。

最近私が思う事は、日本の30年の不況は明治以降のアイデンティティの終焉を教えているのではないか?という事だ。私には良い所取りの副作用に観える。まるで輸入品に紛れ込んだ害虫の様だ。海外にだって日本由来の害虫が異常繁殖した例はいくらでもある。痛み分けというところだろうか?入り込んだ外来種は、ほぼ駆除は不可能だ。上手く付き合うしか無い。マクロで観れば人間も自然の一部である。これは精神や思想にも同じ事が言える。


日本は古くから全体主義であった。


「日本は唯一社会主義が上手く機能している国だ」


ロシア人がそう言っていた。確かに的を得ている。しかし現代では、外来種の個人主義が台頭してきた。本来個人主義とはキリスト教とセットでなければ上手く機能しない。過去の日本人の失敗は、外来の学問や経済、外国語と共にキリスト教を学ばなければいけなかった。洗礼を受けろと言っているのでは無い。文化や技術、外国語以前に人を受け入れなさいという意味だ。人よりも人が生み出した価値のみ受け入れる事は、人を利用している。それすら日本人は気付いていないだろう。日本人は英語を学びたいと思う人は多いが、外国人と話したいという人は少ない。馬鹿なのだろうか?目的と手段が入れ替わっている。因果律の崩壊だ。親子が逆転している事にも気付いていない。近親相関の思想を持っている事すら認めないだろう。世界中で日本人はHENTAIだと認識されている。精神病の元だ。明治維新が近親相姦、つまり精神病の根源である。敗戦も多いに拍車をかけた。


昔の日本は混浴が一般的であった。性的にではなく、日本は公に公平な愛が含まれる。公共に慈悲が含まれるのだ。コンビニやスーパーのレジ待ちの客を観ればよくわかる。公的に人の距離感が大変近いのだ。海外ではあり得ない事だ。戦であっても昨日の的は今日の味方となる。決して敵を全滅させないし、その文化までも滅ぼす事はしなかった。大陸とは違うのだ。


日本には日本のやり方、生き方がある。諸行無常とは、無意味さを云っているのでは無い。家族の不幸は自分の両足両手を失うほどの苦しみを受ける。しかしそれは個人間の出来事だ。人な何のために死ぬのか?それはその人の愛の完成である。必ずやってくる死の知らせでもある。愛した記憶でもある。死とは将棋の駒が成る様に成長するものだ。語り継ぎ死を高く挙げるものだ。諸行無常とは涅槃寂静への手段である。結局はキリスト教の復活も、仏教の拈華微笑も同じことを説いている。


祇園精舎の鐘の声も


誰が為に鐘は鳴るも


同じ意味だ。人は距離が遠い人を愛する事で成長(大吾)する。近親相姦(精神病)の真逆という事だ。