子供の脳を成長させる条件は、子が親を深く受け入れる事である。コミニケーションの始まりと初まりは親である。しかし全ての家庭が円満だとは限らない。不幸にして毒親の虐待に遭い、上手く心を成長させる事が困難な場合がある。だからと言って親を否定し利用して良い理屈にはならない。親がヤクザで刑務所に入っていたら、子も同じ人生を歩んで良いという理屈にはならない。


松本元死刑囚の娘、松本麗華氏は「お父さん」と今でも思っている。これは父親を受け入れている事と同時に、父親の問題も受け入れているのだ。親のせいで学校にも入学拒否をさても、世間の厳しい意見を聞いてもだ。


カトリック教会では今でも悪魔払いを行う司祭がいる。司祭はバチカンから任命された歴としたエクソシストだ。中々若い司祭には荷が重く、成り手が少ないらしい。私が所属するカトリック教会はイタリア人の主任司祭だが、エクソシスムには否定的だ。世界は広い。

私がカトリック教会に興味を抱いた理由は、虐待死した姿を象徴している磔刑像と祈りだ。それに子供心に思った事は、レーススタート時に十字を切るライダーがカッコ良く見えた。エクソシストのお決まりは、十字架と聖水、祈りだ。何故サタンに効果があるのだろうか?


もし私がタクシー運転手に成れば、ドライバーに相応しい人格を創り出す。適応の為だ。パーソナリティとはラテン語のペルソナが由来だが、ペルソナ(仮面)よりも「洋服」が解りやすい。つまり、TPOに合わせて洋服を選ぶ様に、人格を着替えるのだ。つまりタクシードライバーの洋服を着る訳だ。

この様に悪魔に取り憑かれた人は「悪夢を着ている」それが本人の意思で脱げないのだ。例えば若い娘が父親にレイプされる。子供はそんな父親でも、良くも悪くも受け入れてしまうのだ。良い父親も悪い父親も受け入れてしまい、子供の中で苦しむ状態が、悪魔憑きなのだと解釈出来る。


カトリック教会の祈りとは、何百、何千年と多くの人が十字架の前で跪き、同じ言葉で祈ってきた。悪魔はその祈りの言葉の価値を知っているから効果が有るのだと思う。


親の間違いよりも祈りが勝るのだ。