このブログでしばしば遊びの大切さを述べてきた。と同様に依存と自立についても沢山話してきたとおもう。今日はこの2つをミックスしてお話しします。


母が昔話を懐かしむ時、たいていは浜辺で貝や魚を取ったり工場の空き地で鉄くずや炭を集めたり、その他、当時は珍しかった洋風の建物を友達と見に行ったり、そんな話しが中心で。母の郷は小高石、現在の高石市で当時は松林の広がる遠浅の砂丘と少しづつ増えてくる臨海の工場、当時避暑地として有名だった羽衣はすぐそこ。大会社の経営者や外国人の別荘がたくさんあったそうだ。旧浜寺公園駅舎が面影を伝えているかもしれない。


考えてみれば母は身の回りの環境にうまく適応して遊んでいたものだと思う。当時の娯楽は映画くらいであとは自分たちで遊びを作るのが当たり前だったという。


考えてみれば犬だってイルカだって猿だって自分たちで遊びを作り出す。インコやオウムなどの鳥類も然り。これは高等生物の共通点。遊ぶことで色々と経験や知識が得られる。


ただし、残念ながら遊びからそれらを得れない人たちも多く存在する。自助会でよく見かける。だからといって発達障害が原因だとは思えない。多くは自立した遊びができない人たち。


前にも金、時間、友人に依存した遊び方について述べたが、今回は遊び自体について話します。


自立した遊びとは環境をうまく利用して作り出すもの。無ければ無いなりに応用してできるもの。対して依存的な遊びとは何かがないとできないもの。スマホが無ければゲームができないならスマホもしくはアプリに依存している。遊園地でないと楽しくないのは遊園地への依存。


次に同じ遊びでも釣りを例に上げると、釣り堀で釣るのと川や海で釣るのは依存度が大きく違う。同じ場所で釣っても最新の道具で釣るのと自分の手作りの道具で釣るのも大きく変わる。


私がスポーツやアウトドアが好きなのは依存度が低いからであるが、バットやグラブ、自転車やテントなど、やはり自分で作れない依存的な部分は必ず存在する。


経験を重ねるうちにそれらへの依存度を下げてゆくという逆手にとった遊びもしているが、それは自身の依存性を認めた上でのこと。


過去にも述べたが自立と依存は相対的なものであり、一線を引けるものではない。


残念ながら多くの子供が超依存性の遊びに没頭している昨今ではあるが、これらもきっと社相を表しているもののように思える。


私たち大人が本当の遊びを子どもたちに教えてあげないといけない、きっとそんな時代なのでしょうね。