今回は時間をかなり遡ったところからの説明となります。ご了承ください。

 

私が和歌山へ一人歩き出す直前、ネットであるものを見つけました。それはアスペルガー症候群の症状を教えてくれるサイト。そこにはまるで自分自身のことが述べられているように書かれていた。『マンマ俺やん』ってつい口から出てしまった。(自分の多動性はこの後まだ数年間自覚もてずでした。)

 

この段階でほんの少しは受容できたのだと思う。大昔、妻に『精神障害者みたい、アスペルガーって知ってる?』て言われたことがあった。そのときの免疫が少しあったのかもしれない。この段階ですんなり受け入れたわけではないが、自分がうまくいかなかったのは障害が原因で自分の考えが間違っていないのかもしれない、そんな感覚が自分の心をほんの少しだけ浮かせた。

 

で、次の朝に電話してみた。アクト大阪と言うところ、説明は省きます、必要な方はご自身でググって下さい。で、対応的には医者を紹介しますの一点張り、自分は発達障害であるかないかを知りたいだけで、話しをろくすっぽ聞かなくて医者を紹介されるのは納得いかなかった。過去に心療内科での良い思いでがなかったから。

 

一度私の話を聞いてから対応して欲しい、そんな風に述べたところ先方は検討するとのことだった。でも適当にあしらわれたと言う思いしかなく、どんなことはどうでも良くなり、旅立つことにした。

 

旅に出たその日、まだ岸和田を歩いているとき一本の電話(ちゃんと電話もスマホも持って旅に出ていたのだ)。アクト大阪から。先日の私の申し出を検討して受け入れるとのこと。全く予想外だった。が、もう旅に出ている。いつ帰るか判らないが家に戻ったら連絡する、そんな風に述べて足を進めた。このときは数年は帰らないつもりだったから。

 

今思い返せばタイミングがドンピシャなんですよね。自分の人生を思い立った日に連絡が来る、もしあの日旅立たなかったら、こんな連絡もくることはなかったかも、そんな風に思えます。

 

結局旅は二週間で終わり、その後半年以上アクト大阪で面談を重ね、私にあった医療機関を探してくれると言うことになった。この間もすったもんだ的なことはなくはなかったが一歩ずつゆっくり進めていた。

 

そして、医療機関の数ヶ月もの予約待ちを経て検査、そしてその診断が降りたとき、それが丁度選挙事務所に張り詰めていたときだったんです。

 

朝からソワソワした。自分は障害者なのかそうじゃないのか。障害者でないといわれたい気持ちもあるが、障害が私を苦しめていたのだと言って欲しい。気持ちが行ったり来たり、何往復もした。

 

結局は発達障害の診断は降りたが、何かボーっとした気持ちで結果を聞いていた。家に帰る途中、何がどうなっているのかわからないが涙が自然に流れ出た。とまらなかった。これから障害者として生きていかなくならない悲しさと、自分が社会から許されたような、今までを流し去るような、そんな涙のようにも思えた。

 

この後、選挙が終わり、夏のボランティア活動をやりきった後、秋くらいから塾に行きだしたと記憶している。その間も情報として堺で自助会が開催されていることは聞いていたが、足が向くこともなくときが過ぎていった。

 

そして、診断を受けた後に私のもう一つ大きな転機があった。それは道化師(クラウン)の学校に通いだしたこと。そしてここから先は道化師としての経緯を話さないとつじつまが合わなくなってくるので和歌山野宿旅その後編はここまでにして、引き続き『自分発見、道化師として生きる発達障害者』(仮題)を綴っていこうと思います。

 

引き続きご愛読賜れば幸いです。