東京競馬場の芝が最も美しく輝く季節。
風が心地よく、観客のざわめきが高まる。
第92回のダービーの日、健一は確保した指定席で静かに目を閉じた。
亡き祖父・康弘との思い出が鮮明に蘇る。競馬を愛し、サイン読みの世界に没頭した亡き祖父。
その影響で競馬を始めた健一は、父と共に正攻法の予想を貫いていたが、
その違いがいつしか亀裂となってしまった。
しかし、近年になり健一は祖父が見ていた「競馬のもうひとつの顔」に興味を持ち始めた。
そんな健一の隣には、彼女の里奈がいた。
彼女は健一が心から求めていた理想の女性そのものだった。
笑顔が可愛く、明るく、飾り気がなく、自然体。
そして何より、柔らかく穏やかで、まるで祭りの屋台に並ぶ「わたあめ」のような存在だった。
健一は、このダービーの場で、祖父と父に彼女との結婚を伝えるつもりでいた。
レースが始まる直前、健一は競馬場のスタンドを見渡した。
この場所で亡き祖父と父、そして自分が競馬を通して築いた時間。
そのすべてが一瞬のうちに心を駆け巡る。
「健一、レースが始まるよ。」
里奈の柔らかな声に我に返り、彼はうなずいた。
スタンドのざわめきが高まり、ゲートが開く。馬たちは力強く駆け出した。
その瞬間、健一は祖父の姿を思い浮かべた。
もしここにいたら、どんなサインを読み取っていたのだろうか。
レースが進むにつれ、健一の心は静まり、亡き祖父の声が聞こえるような気がした。
「競馬はただの勝負じゃない。人生の縮図だ。読み解くことで、見えないものが見えてくる。」
その言葉が胸に響く。
最後の直線、馬たちは全力で駆ける。
健一は、祖父の魂がこの場に息づいていると感じた。そして、里奈の手をそっと握る。
「祖父も、父も、ここにいる。だからこそ、今伝えたい。」
レースが終わり、興奮と歓声が競馬場を満たす。
その中で健一は、祖父と父に向かって静かに口を開いた。「里奈と結婚します。」
父は驚きつつも、ゆっくりと深くうなずいた。
そして空を見上げた。「お前の選んだ道なら、きっと祖父も喜んでいる。」
その瞬間、空から柔らかな風が吹き抜けた。まるで祖父からの祝福のように。
健一は、祖父との思い出とともに、競馬場の芝の緑の美しさを胸に刻みながら、
新たな人生のレースへと歩み出していった。