巨人が低迷しています。
当然です。
監督としての器ではないと共に、野球に関する、いわゆる[野球頭脳]が原監督には全くない。
マスコミなどからのインタビューを聞いていると、原監督のアホさが良くわかります。何を伝えたいのかが全く意味不明なコメント。
巨人低迷の最大の要因は、原が監督である事です。
2014年に父親の原貢が亡くなるまでは、巨人のスタメンやドラフト指名選手や、色々な重要な決定は、
父親の原貢が行っていた。
つまり、原貢が生きている間の巨人の実質的な監督は原貢だったのです。
父親の原貢が亡くなって以降、そもそも監督としての資質がゼロのアホな原辰徳が監督の巨人が低迷するのは当然の事なのです。
[原貢]の来歴
鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退。
ノンプロの東洋高圧大牟田(現・三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。
◆1965年(昭和40年)に無名校を初出場にして夏の甲子園大会の優勝へと導き、
三池工フィーバーを起こした。
その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者・総長松前重義の招きで1966年(昭和41年)12月9日に大牟田を立ち、12月10日に神奈川着。
同日から東海大学付属相模高等学校野球部監督に就任。
東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替える。
1974年(昭和49年)には長男・辰徳が東海大相模に入学し、「親子鷹」としても話題となるが、辰徳には野球部内では親子の関係を一切断ち切るなど厳しい条件を押し付けた。
練習では何度も辰徳に対して鉄拳を浴びせ、ほかの選手の襟を正すための手本とさせた。
1976年(昭和51年)11月16日に翌1977年(昭和52年)より辰徳の進学と共に東海大学硬式野球部監督に就任することが発表された。
首都大学リーグ7連覇を達成。辰徳が巨人入りすることが決まった直後の1980年(昭和55年)12月19日に東海大相模監督に復帰した。1984年(昭和59年)から東海大学系列校野球部総監督。1990年(平成2年)春から東海大監督に復帰、6度のリーグ優勝に導き、1996年(平成8年)10月29日に勇退を表明した。
以降は再び東海大学系列校野球部総監督だった。
守備に重点を置いた厳しい指導を行う一方、1970年代の指導者にしては珍しく練習中の水分補給を認めたり(当時は「水を飲むと動きが鈍くなる」「飲むような奴は根性が無い」というのが通説となっていた)塩を舐めさせたりするなど、進歩的な考えも併せ持っていた。
また野球部の練習が休みで辰徳が自宅に帰ってきた際には、夕食で辰徳におかずを勧めるなど、温厚な父親の顔を見せていた。辰徳曰く「悪い言葉で言えば二重人格、よく言えば切り替えの名人」。