皆さん、こんにちは♪🌸😊

ご機嫌いかがでしょうか?


更新ができていませんでしたが😅

私の方は、おかげ様で元気にしております。


また、今日も宜しくお願いします





少し前のことですが、

映画「すずめの戸締り」を観ました。


前作「天気の子」から3年を経て、新海誠監督作品の待望の新作です。本当に期待どおりの素晴らしい映画でした😊😭🥰



思い起こせば、3年前

前作「天気の子」の上映は2019年でした。

今思えば、ちょうどコロナ直前だったのです。


前作も、映画館に観に行きましたが、

ラストシーンが気になっていました。。

それを思い出して、

今回、ずっと考えていました。


おねがい

ラストシーンで、主人公の2人が再会する、、

それも3年ぶりの再会で、

なんと、雨が3年間降り続いている東京の街で再会します…、アセアセ

景色は変わり果て、海沿いの街は水に浸かり無くなっている、毎日の天気予報は「明日も雨でしょう、明後日も雨でしょう」と延々と伝える、そんな中でも人々は傘☂️をさして学校へ行き、会社に行き、電車が走り、水溜りの中を車が走り、コンピューターが動き、ビルからビルへと人は吸い込まれていく…、雨以外は、以前と変わらない大都会の姿と人々の生活…、それが3年間…、、

人々は毎日傘☂️をさし、それも馴っ子になった様子で気にもせず、テレビから流れる「明日も雨でしょう」「明後日も雨でしょう」「来週もずっと雨でしょう」という天気予報にも無反応で、パソコンを叩き、買い物に行き、水溜りの道を歩き、黙々と日常を続ける、誰も雨の事を何にも言わずに……、、


これって、

コロナやないか❗️


と、思いました。。


傘☂️がマスク😷になったのが、今の社会の現実のように思えてきます。


誰も何も文句も言わず、マスク😷をして淡々と日常生活を送っている、それが3年間続いているわけです。

もっとも今は、マスクは任意ですと政府がわざわざ言っているけど、ほとんどの人はまだマスク😷をして日常生活を送っている、という訳です。


できれば、新海監督の新作も「天気の子」の続編なら今ピッタリなのに、というのが個人的希望でした。

雨☂️が降り続く街、明日も明後日も☂️と天気予報は伝える、3年ぶりに再会した2人はそこからどう生きるのだろう?

それはすごく、地味で重たい物語になるのかもしれません。


しかし、まだ18歳の2人にとって、この先の方がずっと長い、映画の中の劇的なシーンは夏の間の物語でしたが、そこから世界が変わってしまった後も人生はずっと続いていく、しかもこの先の方がずっと長い、、

どうするんだろう❓どうなるんだろう❓


コロナから3年経った今の私たち。

社会の現状が「作られたもの」であること、それに気づいた人と、相変わらず傘☂️をさして歩いている人と、物価や税金や戦争や、又次から次へと社会不安を煽るニュースが流される…

これから先の「物語」を私たちはいま、

生きている事になるのです。



前作の話が長くなりましたが、

すずめの戸締りは、3.11震災をテーマにした映画という事でも高い評価を得ているようです。


映画では、地震を止める為の「要石」という物が必要になります。元々「要石」だったはずの猫🐱が自由になってしまった事から物語は始まり、最後には結局、猫🐱が「要石」に戻ってしまうのですが。。


前作.天気の子では、主人公が消えてしまいますが、最後には元の姿に戻れています。

すずめの戸締りも、イスにされた主人公は元の姿に戻れます。しかし、猫🐱が「要石」になるのと引き換えになります。


そこには、何か意味があるのでしょう。



自分のために祈って

自分のことだけを考えて


今まで晴れ女😊をやってきた「天気の子」は、

ただ、自分のためだけに祈ります。

その途端に、雨☔️が降り続き、

それと引き換えに、彼女は元の姿になり、元の世界に戻れました。

自分を犠牲にして、晴れを祈る事をやめたのです。

おねがい

今回は「すずめの戸締り」を観ながら、

このような「自己犠牲」について考える事が多かったです。


すずめの戸締りの主人公は、震災で両親を亡くして叔母に育てられます。まだ若かった叔母さんは、引き取った子供を育てる為に、婚期を失い、高校生になった彼女との2人暮らし。

映画の中で、長年隠していた気持ちをつい暴露してしまうシーンがあり、ヒヤッとさせられました。


あんたを引き取ってしまったために、

私はずっと結婚できなかった…



という様な言葉を、叔母さんは投げてしまいます。しかし、彼女の方もサラッとかわして、



私だって、そうされる事を望んでなかった

だから、ずっと家を出たかった…


と返します。

本人のためを思い、ひたすら、引き取った彼女のために生きてきた叔母さん。


自分を犠牲にして、子供のために結婚もできずに尽くしてきたのは、何だったのか?

一体、何のためだったのか?


と、考えさせられます。


また、映画のラストに近いところで、

自由になれたはずの猫🐱が、

自分から「要石」に戻してほしいと言います。


猫🐱を自由にしてしまったのは、

主人公のすずめです。

だから、猫🐱は彼女と一緒に遊びたいと思った、でも、自分がすずめに好かれていない事に気づいてしまった、、それなら、すずめの手で石に戻してほしい、と。


このような悲しいシーンがあり、猫🐱は石になりました。


そして、世界は何事もなかったかのように、今日も震災のない日を送っている、

すずめたち主人公や叔母さんも、元の日常に帰っていく、というラストに向かいます。


すずめの戸締りは、

所々に、この「自己犠牲」が見られ、僕にはとても悲しいシーンだと見受けられました。


「自己犠牲」についてどう思うか?


自ら、みんなのために、誰かのためにと自分を犠牲にする事は美しい事なのか?

そうじゃないのか?

人によって意見は分かれると思います。


私は、やはり

「犠牲にならない事」を選ぶと思います。


「犠牲がなくてはならない」「犠牲の上に成り立っている」というのは、思い込みであり、

それは何かが違っているのだと感じます。

それが愛だと、思い込まされている、というか。。

映画館で、すずめの戸締りを観ながら、

自由になった猫🐱が、いつまでも自由でいられる世界になり、石にならなくても地震のない世界へと、主人公たちが動いてゆき、物語の全てがハッピーエンドになる事を、心の中でずっと望んでいました。


思うに、

それは現実の世界でのハッピーエンドの「物語」として、私たちが紡いでいくもの、、、

私は全ての犠牲をなくした自由な世界に生きれるのだと、信じていたいです。


まずは、自分から

私がそう思うこと、信じること

強く信じることから


いま

自分の思いを強く

信じています。