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学生生活の中で覚えていくのは、他者への優越感。
学校教育は生徒同士の僅かな差を、優劣の大差へと変換してしまうのではないかと、僕は考えてしまいます。

世の中は生存競争なのですが(事実として)、ともすれば必要のない競争を強いられているのではないか…
そんな風に思えませんか?

大した事じゃない、人間の出来不出来など得意不得意もあり、能力の差なんて50歩100歩だと思うのですが、それをレベルだと言ったりランク付けする事で不安を煽り、過当競争へと駆り立てていく、、そして一つの方向へ洗脳していくというような、教育課程の意図があったように思えるのです。
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そんななか、僕が今だに覚えている学校の「授業」があります。
1時間位の出来事を、数十年たった今も思い出せるのですから、心に残ったのだと思います。

「思い出」…、
というのは後ろ向きかもしれません。「今」という地点から逃げ出したいから、過去を美化して懐かしんでいるような。過去のことは全て忘れて、今だけを想い、前向きに、前向きにと、そう考えて生きて来たのですが。

なぜか、
忘れたくない、という想いがあります。

たいていの事は忘れてしまう、熱い気持ちが冷める事など、その時には想像もしなかったのに、きれいさっぱりと忘れてしまう、亡くなった人の事は、殆ど思い出さないし、命日などであゝそう言えばという位になる、好きで好きでどうしようもなかった人の事も思い出さない、きれいさっぱり、おたふく風邪でもひいていたかのように、今は何も思い出さない、忘れていく、顔さえも思い出せない、忘れる、忘れる、忘れる、全てを忘れて生きている、、僕はそんな寂しい人間なのです。
音符

でも本当は、もっと良い事もいっぱいあったはずなのです。良い人もたくさん居た、感謝すべき人が居た、暖かく迎えてくれた人達が居た、仲間が居た、暖かい友達が居た、みんな仲良く過ごした日々だって確かにあったのだ、、
もちろんそれは、ずっと続くものではないのだから、忘れていくのが普通でしょ、と言われるかもしれません。

それでも、、
本当はもっと大事な事があったんじゃないか?忘れてはいけない事まで、きれいさっぱり忘れてしまったのではないか?
そう考える時があります。

微かな思い出は残っているけど、自分にとって都合の悪い事やら何か、忘れてはいけない事まで全て忘れてしまったんじゃないのか?、と。


忘れたくない
と強く思っていたはず

恐竜くん
「心に残る授業」というのは大げさですが、高校の時の体育の先生の話ですグラサン
その体育教師は見た目もイカツイ顔で恐ろしく、あまり好きではなかったのですが。よそ見をしていたというだけで一発殴ったり、竹刀を持って来て「気合い入れ〜!」と言ったりする人でした。
自分の事を「わし」と呼ぶ、当時すでにベテランの先生でありました。
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その日はハンドボールの授業でした。
ある生徒が自分へのパスボールを落としてしまいました。良いパスでした。そのままゴールできるタイミングです。ボールを落とさなければ、大チャンスでした。
しかし残念ながら、その同じミスが2回続いてしまい、険悪な雰囲気になりました。

すると先生は、
ボールを投げた方の生徒を怒り出しました。

「お前、何回同じミスしとるんや?」

怒られた生徒は、不服そうです。
彼は良いパスを出していました。そのボールを落とした生徒が悪いのでは?というのが我々の認識でした。

「お前、悪いと思ってないのか。なんで俺が怒られんの?という顔やな。お前が悪いやろが!」
と、お怒りは続くのでした。

「もうええ!」「怒ってる意味がわからんのなら、こんな授業は何の意味もないわ。今日はもうええ、辞めや。一回集まれ、全員こっちへ来いや。」

全員、おどおどと集まりました。

「お前ら、体育の授業.スポーツは何のためにやっとる?」

「何のためにスポーツをやっとる?」

「体を鍛えるためか?チームスポーツはどうや?ハンドボールはチームスポーツや。チームスポーツは何のためにやっとる?」

「それがわからんのなら、体育の授業なんて何の意味もない。チームスポーツは何のためにやるか、考えてみろ。」

「お前らは学校を卒業して社会に出る。社会に出るとはどういう事か、考えた事があるか?社会に出るといろんな人がおる、お前らみたいに健康で五体満足な体で生まれた人だけじゃない。車椅子の人、目の見えん人、耳の聞こえん人、生まれつき病気で体の弱い人、、いろんな人がおる。お前らが社会に出た時、そんな人らとも一緒にやっていく事になる。社会に出るというのはそういう事やろ。」

「このボールを車椅子の人に投げてみろ。その人はボールを受けとれるんか?」

「目の見えん人にボールを投げてみろ。その人は、ボールを受けとれるんか?」

「体の弱い人には、弱い人でも受けとれるボールを投げる。当たり前のことや。体の弱い人に、スピードのあるきついボールを投げて受けとれるわけがない。相手の胸元に、相手が受けとれるように、ゆっくりとボールを投げ入れるんや。
社会に出るというのは、そういう事やろ。みんなが同じように五体満足で生まれて来たわけじゃない。お前らみたいに、みんなお父ちゃんお母ちゃんが高校行かしてくれるような恵まれた家庭で育ったわけじゃない。」

それから先生は、先ほどのミスの原因を、2人を並べて一つずつ説明をはじめました。

原因は、この2人にはかなりの身長差があったという事。パスを落としてしまった生徒は背が低かったので、投げる方が態勢を低くする位で丁度良くなる、受ける側も受けやすい態勢を作るべき云々、という話でした。
なるほど、身長差があるという事は誰も意識をしていなかった、ただ受け損ねたヤツが悪いとしか考えなかったわけです。

「お前らの中にも色んなヤツがおる。
運動神経の良いヤツ.悪いヤツ、ボールを受けるのが下手なヤツ.上手いヤツ、背の高いヤツ.低いヤツ、気の弱いヤツもおる、ケンカっ早いヤツもおる。」

「ボールを受けるのが下手なヤツ、一歩前に出ろ。なるべく近い位置でボールを受け止めろ、自分で受けやすい態勢を作ること。それから、パスを出す方は相手をよく見る。自分がパスを出す相手はどんなヤツか?相手が受け取れるパスを相手の胸元へキチッと送り込んでやる、受け取れないボールを投げても何にもならん。」

我々は、練習を再開しました。

今度は本当に真剣に、誰もが集中し、お互いが声を掛け合い、相手を良く見て相手に届く受け取れるパスを出すという事を考えて。その僅かな時間に感じた連帯感、心地良さ、ボールの響き、鼓動が一つになるような感覚、、チャイムが鳴るまでこんなに真剣な体育の時間は初めてでした。

授業が終わり、、
教室へ帰るまで何故だか誰も何も言わず、1人1人が何か考えながら歩いているという感じでした。僕も何か感慨深い気持ちで一杯で、言葉には出したくないと思いました。これを言葉にすると、何かいつものオチャラケタ感じになって台無しになってしまうんじゃないかと。きっとみんな同じように感じている、だから黙って歩いているんだろうと。

いつか社会に出て、
そこが想像以上の厳しい場所であっても、確かな事を教えてくれた、本当の事はそういう事、そうでなければならない…

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割り切って、開き直ってしまう大人の側に立った現在、、。
何だかこれが社会人なんだろうかと思えてしまう事が多々あります。
ただ分かったような口をきく、何だか情け無い、理屈だけが達者になったような気がするのです。

大人として、子供に教えられるような事をちゃんとやっているだろうか?
大人として、社会人として、本当に正しい事をしているだろうか?
本当に、次の世代が見習えるような大人になっているのだろうか?

割り切る事を覚えた、
例えば、金が社会を動かしているのだと割り切って生きるとか。しかし、それではまるで人間が金という紙切れに動かされ、支配されているように思えてなりません。

僕は一時、割り切るのが大人だという気でいました。しかし、そんなのは何も社会を作っていない、ただのポーズに過ぎない、割り切っているように見えて、ただ面倒な事を避けているだけだと、今は思っています。


学生の頃に思っていた「大人の姿」とは現在の僕のような姿ではなく、もっと成熟した頑強な存在であった筈なのですが。。


大人になりたい、と切に思います。




歌〜ダウン