ミレニアム(ハヤカワ・ミステリ文庫) 』にハマりました。


仕事で付き合いのあるスウェーデンのヒット作であり、また元々ミステリー小説好きということもあり以前から気になっていました。


ちなみに昨年は第1部が「ドラゴンタトゥーの女」として映画化されました。

(映画は観ていませんが)


ちょっと厚めの文庫本が第1部から第3部まで上下巻そろって全6冊のシリーズです。

新聞の紹介欄か何かに「この本は6冊一気に読むべし」と書かれていたので、その通り一気読みしました。いや、その紹介文が無くても、おそらく一気読みしていたでしょう。読み始めると続きを読みたくて眠れなくなってしまい・・・という感覚は久しぶりでした。


第2部あたりを読んでいる時、たまたまスウェーデンの友人に会う機会があったので、「今、ミレニアムを読んでいるんだ」と話したところ、この作品はもっと続く予定だったが第3部を書き終えたところで作者のスティーグ・ラーソンが病気で急死されたという話しを教えてもらい、さらに作品に引き込まれました。


ストーリーもミステリーも面白かったのですが、今回の僕は、主人公のミカエルがジャーナリストとして巨大な権力に立ち向かう姿勢に魅せられたのです。


本を読んでいる時の自分の心境によって、同じ小説でも引きつけられる部分が変わってくることも読書の醍醐味ですね。


そう考えると、主人公のミカエルが、あらゆる既得権益に戦いを挑む姿勢に引きつけられた、、、今の僕の心境って何なんだろう。

時として、「自分再発見」の瞬間は来るものです。

先日、仕事の話をしている際に、僕にも「そうなんだ」と思う瞬間がありました。

もちろん、周りの皆さんが真剣に話しているとき、そんなことを考えていたので大変失礼だと反省もしています・・・Y(>_<、)Y


それは品質保証や信頼性保証の話しの流れで、規制当局の要求事項や通知が云々の話題のときでした。やはり話の流れは、どうしても要求される書類が作成されていればOKみたいな雰囲気になってしまいます。そうなると、全く興味を失ってしまう自分がいて、それを自分自身でもコントロールできず困ってしまいます。(きっと、つまらなそうな顔をしているのだろうな・・・)


その時、自分の中で何かに気付いたように感じました。そして、そのことを何となく考えていたら「自分って、そういう人なんだ。そうなんだ。」と思う瞬間が来たのです。


人生において、それで進む道が決まるような”出会い”が誰にでもあると思います。

例えば、フェルマーの『xn+yn=zn』に出会って数学と恋に落ちたという人もいますし、

アインシュタインの『E=mc2』に出会って物理の世界にはまったという人もいると思います。

もちろん学校で出合った教師の影響で進む道が決まった人もいるでしょう。


僕にとって、最初の出会いはメンデルだったように思います。すなわち、『Aa × Aa の両親から優性:劣性が3:1で生まれる』という説明を高校1年で教わったときに、すごく世界観が変わったような気持ちになったのです。

なんて美しい理論なんだと感じ、そして、それは自然界が生み出している法則であることに驚いたのです。それ以降、「生物」の授業にはまっていったように記憶しています。


そして、もう一つの出会いはコッホだったように思います。大学に進み、細菌学を専攻するようになったきっかけは、彼の4原則に魅せられたからです。すなわち、

(1)ある一定の病気には一定の"微生物"が見出されること

(2)その微生物を分離できること

(3)分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること

(4)そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること

このシンプルかつ理にかなった考え方に強く惹かれたように思います。



そんな自分の過去を思いながら、共通点を考えたとき、自分は「論理的に破綻が無く、ストーリーとして証明が成立する」瞬間を目にすることに快感を感じているのではないかと気付いたのです。


話をいっきに戻すと、現在の業務において「品質保証」「信頼性」「Validation」等はとても重要なキーワードです。これらを担保するための方法として、「言われた通りにやったから」とか「資料が全部揃っているから」というだけではなく、『論理的に破綻が無く、ストーリーとして証明』出来たら良いなぁと、常々考えているように思います。


そう考えると、日々の業務は単なる書類整備ではなくて、「これって、やっぱりサイエンスだよなぁ」と思えて、ちょっと嬉しかったりするのでした(o^-')b

人は無意識のうちに楽な方へ、楽な方へ行ってしまう。。。

しかし、その先にあるものは。。。


なんとも歯痒い問題だ。


この問題は、「ダイエット本」の読後の書評を見ると顕著に現れているという。

たしかに、「ダイエット本」を読んだ人の感想には傾向があるようだ。


あるダイエット本には、「生活リズムを規則ただしく」、「夜9時以降は食事をしない」、「ハラ七分目」、「適度な運動」といった内容が書いてあった。すると、実際に読んだ人達の書評はあまり高くない。すなわち、「目新しいことが無かった。」「当たり前のことを羅列しているだけ。」「わざわざ金出して買うまでも無い。」などなど。


あるダイエット本には、「特別に生活を変える必要は無い。」「好きなだけ食べてよい。」「運動は必要ない。」「ただ、○○茶を飲むだけ。」といった内容が書いてあった。すると書評は高かった。すなわち、「すごく気楽になった。」「これなら出来そう。」「今までの苦労が嘘のよう。」などなど。


どう感じられるだろうか?

なぜ突然にこんな話しをする気になったのか。それは、相変わらずEDCで苦労しているからです。


EDCにより品質向上が期待されるのは、どんなことだろう?

私は、「タイプミス(誤入力)」「入力漏れ」といった、いわゆる”うっかりミス”、つまりCareless mistakeを防ぐことだと思う。

しかし、どうも”プロトコール違反”を防ぐと思い込んでいる人が多いようです。こういう人たちは、全ての項目に入力規制やチェックプログラムやワーニングを埋め込みたがる。これは、まさに『労多くして功少なし』の典型だ。


もちろん、可能性はある。

Fixing Broken Windows: Restoring Order And Reducing Crime In Our Communities 』にもあるように、軽微な過ちを無くすことで、大きな過ちが防がれる、ということは充分期待できると思います。

だから、私も「細かい間違いは良いじゃないか」と言うつもりは全く無い。


私が問題に思うのは、「研究仮説やプロトコールを完全に理解していなくても、EDCのガイドに従い入力していけば、綺麗なデータが収集できる。」という期待を持ってしまう考え方だ。


・・・と、こんな”当たり前のこと”を言っていると、前述の「ダイエット本」と同様に、酷評されてしまうのですね。評判を良くするためには「○○茶を飲むだけで誰でも出来ます。」戦法に変えるべきなのだろうか。。。