GWもあっという間に後半に突入しました。
「休日は過ぎていくスピードが速いのは何故?」という子供の頃からの疑問は、今に至っても解けていません。

そんな連休中のニュースを見ていて、若干”イラッと”来ました。
それは、富士山関連のニュースです。

世界遺産に登録されることとなり、この連休は例年より多くの人が訪れている・・・というニュースでした。

それを聞いて、「なんで?」って思いました。
例年より多くの人が来たということは、世界遺産に選ばれる前より、選ばれた後の方が、富士山が奇麗になったということ?
「世界遺産に選ばれたから見に行こう」という人が多いということ?

もちろん、富士山の形は全く変わっていない。
だったら世界遺産だろうが、なかろうが、その美しさは不変ではないだろうか。

このことに限らず、”権威好き”の国民性にはうんざりだ。

「○○さんが、お勧めしていたから」
「○○省が公認したから」
「○○セレクションで金賞を受賞したから」
「○○本に載っていたから」

・・・どうでも良いでしょ。

「美しい」
「美味しい」
「面白い」
「好きだ」
といった言葉達の前に、「○○さんが、お勧めしていたから」なんていらない。
ただ「私は」という言葉だけで十分だと思います。

「私は富士山を美しいと思います」
そんなシンプルな表現が、”私は”好きだ!
もうブログは止めたのか?と思われるくらい、全く更新していなかった。。。

基本的に「喜怒哀楽」どれかの感情が動いた時に、ブログを書いている気がするので、それだけ感情の起伏が無い平穏な日々が続いたのか、又は思考停止していたか、どちらだろうなどと考えてしまう。

さて、気分を変えて本日の話題。
毎年の事だが、この時期は特別な雰囲気がある。
歩いていても、電車に乗っても、いわゆる”フレッシュ”な人たちが目に付く。
学生にしても、社会人にしても、新しい世界に一歩を踏み出した人たちだ。
緊張や不安を感じつつも、希望というオーラが出ている人たちを見ていると、こちらの気分も良くなってしまう。

最近の若者達は、欲や野心といったものは無く、現状維持に満足すると言われている。
本当にそうだろうか?
いかにも、といったスーツを身にまとい、慣れない満員電車に乗り込む彼等、彼女等の姿から無気力というオーラは出ていない。少なくとも僕にはそう見える。
だとしたら、何故。。。

そもそも前向きなオーラはどうして発生するのか?と考えてみた。
新しい世界に踏み出すと、今までの自分の世界にはいなかったようなスゴイ人と出会うことがある。
その時に、「スゲー」「カッコイー」という感激から、自分もあんなふうになりたいなという気持ちを持つ。つまり、同性・異性にかかわらず『憧れ』の人と出会うということを経験する。
これが”野心”や”前のめり”なオーラの引き金の一つではないかと思う。

だとしたら、若者達が前向きになれないのは、『憧れの人』に出会う機会が無いからではないか。。。

ということは、「最近の新人は、全く覇気がないよね。」なんて愚痴っている諸先輩!それは「自分には全く魅力が無いんだよね。」と言っているのと同じ意味ですよ!ちょっと恥ずかしい!
あなたが『憧れる』人であれば、まわりの新人さんはきっと前向きオーラを発してくれると思います。

そういう自分はどうなんだ・・・?
うーむ、しばらく新人さんの前には出ない方が良いかな・・・、彼等・彼女等が希望を失わないために、普段以上に陰を薄めて。。。
僕は日常会話やこのブログでも、「まずはやってみよう!」といったことを言い続けています。
「やってみなはれ」「やればできる」等、過去の偉人達の言葉はあちらこちらで紹介されているのではないでしょうか。

「この先に何があるのかなぁ」と3日間悩み続けても、1mmたりとも前進しません。しかし、たった一歩踏み出すだけで、700mmも前進できます!

「考える事」はとっても重要です。しかし「実行」しなければ、何一つ変わりません。「考えているだけ」では「何もしていない」と同意になってしまうと思います。いつか人間がサイコキネシスを使えるようになれば別ですが、少なくとも今は使えませんよね。
いやまて、実は既に皆サイコキネシスを使えていて、僕だけが使えないだけなのか?
だから「やってみよう!」なんて言っているのは僕だけなのか・・・。

さて、冗談と前置きはこのくらいにして、何故またこの話題を書きたくなったのか。それは、改めて「違和感」もっとキツい言葉で言えば「嫌悪感」を感じる事に気付いたからです。
それは「べき論」です。

「○○は、こうあるべき」というやつです。

たとえばあるシステムの仕様書と設計書と定義書をくださいと言われ、「どんな内容が知りたいのですか?」と質問したところ、「これと、これ」といった回答をいただく。
「それでしたら、全て定義書のこの部分に記載されていますよ。」と教えると、「それは仕様書に書かれている”べき”」と言い始める。
「そもそも簡単な設定しか使わないので定義書のみで網羅している。」と説明すると、「いやいや、仕様書と設計書と定義書は別々にある”べき”だから、分けて冊子にしてください。」と要望される。

こんな例はたくさんあると思いますし、「意味の無い形式論」と言われていることも多いかと思います。
しかし、とりわけ僕が気になるのは形式論だからではなく、「べき論」には「言い訳」的な逃げの気持ちが含まれているのではないかということです。

「この作業は2名で担当する”べき”」という言葉の裏には「1名だから出来ない」という言い訳が隠れていないか?
また、「○○という文書を作る”べき”」という言葉の裏には「○○という文書さえ作っておけば、怒られる事はないだろう」という逃げの気持ちが隠れていないか?

こういう事って、他人事の方が気付きやすかったりしますよね。
だから時々、本当に他人の立場になれて、自分がやっている事を客観的に見ることが出来たら良いのになぁと思います。
今の自分を見てみて、「理屈抜きに『そりゃ変だろ』と感じるような言動をしていないですか?」と他人になった自分に聞いてみたいです。そこに『違和感』や『嫌悪感』を感じないかと確かめてみたい。

何も考えていない・・・というのはまずいのですが、時として「知っていること」よりも「感じていること」のほうが真実に近かったりするのですよね。。。