私は自分のことを割と冷たい人だと思っている。

 

 

 

そこに、ネガティブな思いもないし、声を大にする事でもないのだけれど。

とにかく私は私のことをそう思っている。

 

 

私は、困っている人がいても、すぐに駆け寄ることはできないし、泣いて辛そうな人がいても心から寄り添ってあげる事はできない。

 

 

そうした方がいいんだろうな。

そうした方が喜ばれるのかもしれないな。

 

 

 

そう思う時もあるけれど、それをしている自分が白々しく思えて居心地が悪い。

 

だから、無理はしないことにしている。

究極の時はまた違うけれど、他に誰かがいれば他の人にお任せする。

 

 

そういう風にしているにも関わらず、私のことを優しいと人だと誤解する人がたまにいる。

 

 

私は、優しくないですよ。

 

 

優しさを求められると苦しくなるので早めに申告する事にしている。

 

 

私に優しさを求めるのは無駄ですよ。

 

 

せっかく伝えているのに。

そんなことはないよ、あなたは優しいよと言ってくれるので、また戸惑う。

 

 

 

お願いだから、人の話を、聞け。

 

 

 

それでも。

そんなに言うなら、冷たいのは私の勘違いなのかもしれないな。

そうしてうっかり期待に答えそうになる時があるけれど、やっぱり優しさに関しては本当に無理がきかない。

 

 

たいして優しい気持ちでもない時に優しさを求められると、胸のあたりがムカムカする。

 

 

 

期待に答えなきゃと、期待に答えたくないの前提が同居しているのだ。

 

まさにこれは母への感情由来。


と同時に、優しくない部分の私が否定されたようで心が暴れ出す。

 

 

 

私は、私の冷たい部分も愛おしい。

自分の冷たい部分もとても好きなのだ。

 

 

 

私は、博愛主義じゃない。

 

 

私の優しさは、私の手の届く範囲まででいい。

だから、それ以上の優しさは、出し惜しむよ。

 

 

優しくするかどうかは、私が決めればいい。