正論って本当に正しいの? | 数秘術家 阿部としみのブログ★ 数秘サロンTSUKIYOMI(ツキヨミ)

数秘術家 阿部としみのブログ★ 数秘サロンTSUKIYOMI(ツキヨミ)

数秘術家 阿部としみの日々の気づきと数秘術で読み解く毎日のメッセージを綴っています。

よかれと思って、

その人を正しい道に導こうとして、

私たちは正論をふりかざすときがある。

もっとも自分ではそれをふりかざしている気はない。

しかし、正論は

ときに何の効力を持たないばかりか、

相手のやる気をそぎ、

逃げ場を奪い、

最悪の場合、主導権争いが勃発しかねない。


以前、ある市で人間関係を良くするための講座を依頼されてお話したことがありました。

受講生は30代40代がちらほら、圧倒的に50代60代、そして70代の方々でした。

人がどんなときにコミュニケーションの意欲をそがれるか、ということをそのときお話してたのですが、

いくつかの中で、「正論を言うということをあげたとき、60代の男性がくってかかるかのように、「それは違う!」と発言されました。


正論は正しいことを言っているのだから、何がおかしいんだ。

正しいことを言ってあげる、教えてあげるのが何でいけないのだ。


男性はそう主張されました。

私は男性にこのようにお尋ねしました。


「もし、あなたが中学生で、冬の寒い朝も早くから部活の練習をがんばっていたとします。

ふと、ある朝お母さんに寒いから朝錬行きたくないと愚痴をこぼしたら、お母さんから、「冬は寒いに決まってる!」と言われたとしたら、どんな気持ちになりますか?」


男性は黙られました。

いい悪いを言うのではなく、正論を言われた方の気持ちを感じてみるとよくわかります。



私は長男を育てる過程で、手をあげるなどと、だいぶ厳しくしてしまった時期があり、彼が二十歳になったころ、そのことを深く謝ったことがありました。

すると息子は、

「謝らなくていいよ、謝られると俺の過去まで否定されるような気になるから。

厳しくされたことは結果的にはよかったと思ってるよ。叱られていたころ、自分でも自分が悪いことはわかっていたよ。

でも、正論を言われるのはつらかった。

息子の言葉に胸があつくなると同時に、最後の言葉が胸にささりました。


愛する人たちが、その道をまっすぐ行かないことに対して私たちはとてもはらはらし、心を痛めることもあります。

でも彼らがまっすぐ行かないということを魂レベルで選択しているとしたら、私たちは祈り見守るしかないのではないかと思うのです。

自分のことなら耐えられるけど、愛する人の痛みは耐えられない・・・

そうおっしゃる方は結構多いし、実際私自身もその気持ちは共感できるのですが、

これは本当のところで、相手の力を信じてあげていないということにつながるのではないでしょうか。

もっと言えば、自分の力を信じていないために、無意識で相手への心配と介入に転化するのではないでしょうか。

自分自身がなんとか自力で立ち上がり壁を乗り越え、傷を癒すことが出来たという体験をし、自分の力を信じることができたら、きっと愛する人たちもそれが出来るはずと気づくことでしょう。

そしてそうなるようひたすら愛の祈りを送ってあげる。

そんな姿勢が大事ではないかと思うのです。

正論をしょっちゅうふりかざす人は、どこかで論理武装をしなければならない理由があるのかもしれません。



しかし一体、正論はどこに基準があるのでしょう?

誰か言えますか。

歴史も変わり人も変り状況はつねに変化していきます。

国も性別も貧富の差もさまざまな中でどれが正論なのでしょう。

昨日正しいと思ったことが、今日にはくつがえされます。


正論の基準は、愛に基づくものか否か、


私にはそれしかないように思えるのです。