続きです

 

(1)日常生活の中で自分がアジア系アメリカ人(以下、との親近感を感じますか。AsAmではない人との距離感、AsAm)であることをどれくらい意識していますか。どのような時に、AsAm

 

 

(2) であることに利点はありますか。あるとしたら、どんなことですか。AsAm

 

(3)AsAmであることに不利益な点はありますか。あるとしたら、どんなことですか。

 

(4)アジアにいる時、どんな気持ちですか(落ち着く、ほっとする、カルチャーショックを受ける、など)。

 

(5)アメリカのいわゆる一流大学が、より優秀なAsAmを不合格にし、マイノリティではない白人学生を優先することによって、AsAm合格者数の比率を抑制している件についてどう思いますか。

 

(6)AsAmに関する固定観念にはどのようなものがありますか。そのような固定観念についてどう思いますか。


 

IV. 20代女性

(1)私の「アジア人意識」は一定ではなく、常に流動的です。一日の中でも、状況によって変化します。親しい友達はAsAmまたはそれ以外のマイノリティなので、人種的な抑圧感は、その子たちといる時は緩和されますが、それは抑圧自体がなくなるということではありません。自分の「アジア系意識」は、私のアイデンティティの重要な位置を占めるものであり、私が実世界を経験し、他人と関わる際の媒介でもあります。よくも悪しくも、私たちは人種というカテゴリーから自分たちを切り離すことができません。社会的成功を手にして、アジア系ではないただの「アメリカ人」になろうとしているAsAmでさえ、彼らを分類しラベル張りをする政治的・組織的システムから自由にはなれないのです。

 

今となっては「人口統計的」「文化的」なラベルに成り下がった「アジア系アメリカ人」というカテゴリーですが、もともとは政治的な意味を含んだ言葉でした。だから、同じ抑圧を経験し、それと戦う政治的な同志として「アジア系アメリカ人」と呼ばれる人たちに親近感を感じます。「アジア系アメリカ人」と私たちが言うとき、その背景には過去から現在につながる多くのAsAmたちの闘争の歴史があるのです。その歴史を分かち合うAsAmたちへの連帯感を覚えます。

ヨーロッパ系移民の白人のほとんどは、このような闘争とは無縁でした。現在、どんなにマイノリティが直面する差別に理解を示すような人であっても、ヨーロッパ系の人々には分かりえない苦労がマイノリティにはたくさんあります。なぜなら、アメリカは白人のために作られた国で、白人が優遇されるように作られている社会だからです。だから、私自身は、ほかのAsAmと団結・交流したい気持ちがある一方で、ヨーロッパ系アメリカ人と団結することには懐疑的です。「あなたは色々なことを深く考えすぎですよ」と言われるのがおちだからです。しかしながら、「アジア系アメリカ人」というアイデンティティを持つ人が一枚岩ではない現実にも気づいています。例えば、アメリカ社会の「アジア系」というカテゴリーは主に東アジア(中国・韓国・日本)からの移民とその子孫が中心で、彼らが南アジア系・東南アジア系・ポリネシア系の人々に対して排他的である場合があります。このような状況を変えるには大きな努力が必要です。

 

そして、「民族アイデンティティ」というカテゴリー自体、不完全なものであるという認識が必要です。「アジア系アメリカ人」は均質なグループではなく、収入、教育、社会階級、性別、セクシャリティなどの違いが、人々の経験の多様さを生んでいます。私個人が一番親近感を感じるのはアジア系アメリカ人でクィアの女性たちです。人種的にアジア人でも、ほかのアジア人に対して差別的であるAsAmや自分たちの歴史を知ろうともしないAsAmもいます。このような様々な状況を考慮すると、簡潔に「アジア系アメリカ人の経験」を語ることは難しいと思います。

 

(2)個人的なことですが、私自身、自分がアジア系アメリカ人の女性であるという当たり前のことを積極的に受け入れることによって、勇気や生きがいや喜びを感じるようになりました。この国でアジア人として歴史を紡いできた人々の伝記や物語を読むことが私のパワーの源であり、そのような物語を読むたびに、自分もこの社会をよりよい場所にするための努力に貢献したい、という意欲が湧きます。自分にとって、AsAmがもともと政治的な意味を持つカテゴリーだったと知ることはとても刺激的でした。この知識を契機に、自分がマイノリティであることへの劣等感や孤独感から脱却し、ほかの人々と社会的な様々な問題について深く議論することが可能になりました。

 

しかし、よく巷に溢れる「逆境をバネに成長しましょう」的なスローガンには賛成できません。そのような言葉を耳にしても、家父長的・性差別的な社会に生きる女性、人種差別的な社会に生きるマイノリティの経験はちっともマシになりません。マイノリティの不幸を美化し、メディアの視聴率に貢献するための「物語商品」に貶めるようなレトリックには抵抗しなくてはいけません。

 

(3)AsAmであることによって強いられる不利益はたくさんありますが、その多くは「モデル・マイノリティ」である言説によってもたらされています。「アジア人は経済的・学歴的に白人よりも成功している」という神話のせいで、アジア人があたかも社会的弱者ではないように思われがちです。AsAmが白人と同じ地位を獲得したように思わせるような言説はまったくの虚構です。実際には、高校すら卒業していない若者や、物価の非常に高い都市部に住んでいるために貯蓄する余裕のないAsAmはたくさんいます。私は「アジア系は他のマイノリティほど差別されていない」という覇権的な言説を理由に、日夜AsAmが直面する差別を容認するのは間違っていると思います。メディアは「暴力的な差別を受けるアフリカ系人とヒスパニック系のアメリカ人」とは別の「寡黙で従順なアジア系」というイメージを作り上げていますが、そのようなイメージは、AsAmが政治的な意見を表明することを暗に抑圧します。これまでアジア系移民が差別と戦ってきた歴史を封印することによって、現在でも差別や不平等の対象になっているAsAmが過去の例に学ぼうとする機会を奪われているのです。

 

(4)私はアジアが自分の故郷であるようには感じません。実は私は韓国で生まれたのですが、韓国を訪れても、そこが自分の国であるとは感じないのです。その理由は、自分の韓国語、韓国の文化・習慣などの知識が完璧ではないことです。自分という人間を形成するうえで最も重要な時期をアメリカで過ごしたので、私の子ども時代は「韓国人としての私」「アメリカ人としての私」という両極に引っ張られ、どちらに行くべきかわからない状態でした。5歳でアメリカに移住して、「はやくアメリカの生活に慣れなさい」という社会からのメッセージと「母国を忘れないで」という親・親戚からのメッセージの板挟みでした。そして去年、アメリカに移住して以来初めて韓国を訪れた時、さまざまなカルチャーショックを経験しました。そして、「もし将来、自分の韓国籍を利用して、この国に住もうとしたら、再び新しい文化に馴染むためにまた数年間もの苦労を重ねなくてはいけないのだ」という事実を目の当たりにしました。自分が完全な「アメリカ人」だとは思えないように、私は「韓国人」にもなりきれません。AsAmとして生きることは、自分の本当の居場所がどこにもない状態、常に中途半端な宙づり状態なのだと言えます。

 

(5)優秀なAsAmが、人種的理由によって一流大学への進学の道を閉ざされていることに強い怒りを覚えます。先ほども言った通り、「アジア系アメリカ人」と一口に言ってもさまざまな人がいます。非常に経済的に豊かな人もいれば、学費をすべて奨学金でまかなえるほど低所得の家庭の出身者もいます。そもそも、受験生が「マイノリティ枠」という狭き門をくぐるためにマイノリティ同士が競争しなければいけないのは何故なのでしょう。そして、合格者の多数が白人であることを当然とするのは何故なのでしょう。

 

もし、選抜の結果、アジア系の学生が白人の学生よりも優秀であるなら、優秀な方をとるのが当然ではありませんか。AsAmが学業に秀でているのは、別に生物学的に優位であるとか、社会システムから優遇されているわけではなく、努力の結果なのに、「モデルマイノリティ」というイメージが先行して、アジア系があたかもアジア系であるという理由で得をしているかのように、ハンディを背負わされているのです。アメリカ社会は、エリート大学におけるAsAmの比率を制限するような方法ではなく、全ての人々に平等な教育の機会を提供することによって、大学入学者の多様性を広げるべきです。アメリカの教育は非常に不平等なシステムの上に成り立っています。富裕白人が多く住む地域では、中学校や高校で大学受験に必要な教育が提供されますが、マイノリティが多い地域では、教育の質が低く、子どもたちは大学進学に必要な知識を得ることができません。エリート大学の選抜基準は「平凡な白人」が「有能なマイノリティ」よりも成功しやすいこの社会をそのまま反映していると言えます。

 

(6)AsAmに関する固定観念は多すぎて、何から列挙するべきかわかりません。その多くは互いに矛盾するものですが、目的はどれも同じです。それは、AsAmを深みのない、平面的な戯画にした上で、AsAmのために特別に作られた「アジア系の役割」を当てはめることです。アジア系移民がもともと「安い労働力の提供者」してだけ存在した時代のように、状況が変化してもAsAmがステレオタイプ化されたイメージでしか見られないのは同じです。

 

東洋人女性に関するステレオタイプには、とても有害で矛盾をはらんだものが含まれます。一方で、東洋人女性は「従順、女らしい」など、まるで「蝶々夫人」そのままのイメージです。蝶々夫人は、逆境にあった時に、自分の力で状況を変えようとはせず、自殺してしまう悲劇のヒロインです。他方で、東洋人女性は淫乱だという先入観もあり、これはアジア人の肉体がエキゾチックで興味深いもの、フェティッシュ化の対象にされてきた、という歴史と深い関わりがあります。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、対アジア戦争の後、現地女性が米兵に性的なサービスを提供した歴史や、多くの女性が米兵に嫁いだことも大きな原因でしょう。そして、このような歴史は中学・高校の歴史の授業などでは教えられることはありません。この国は、自分たちの「恥の歴史」を封印しようとしているのです。

 

東洋人女性の肉体をフェティッシュ化する作業は、暴力的・帝国主義的な男性の欲望を反映しています。アジア系以外のアメリカ人がアジア系女性を「従順で淫乱な理想的な女性」だと決めつけることを「アジア人フェチ」「黄熱病」などと、メディアがおもしろおかしく取り上げていますが、それはAsAmの女性への性暴力を容認することにつながる、無責任な行為です。

 

最終的には、アジア人の女性は理想的で、アジア人の男性は男らしさに欠け、弱弱しく、性的パートナーとして不向き、というような固定観念が根強く存在します。その他のステレオタイプは、「勤勉、モデルマイノリティ、従順、無抵抗、政治的に無関心」などで、全てアジア人の政治的な影響力を弱めるために利用されているものです。

 

V.20代男性

(1)私は自分の人種と他人が自分をどのように見ているか、ほとんど常に意識しています。特に、AsAm以外の人と話していると、よくフットボールや野球など、自分にとってあまり重要ではない「アメリカ的」な話題を持ち出すので、距離感を感じます。また、AsAmの友達と生い立ちや家族のことや食べ物のことについて話すとき、非常に親近感を感じます。

 

(2)中国系移民一世である親を見て、勤勉さの大切さを学んだこと。そして、「アジア人は頭がいい」というイメージは自分にとって学業のモチベーションになりました。それから、中国以外のアジア文化を学ぶ上でも、色々な共通点があるのは利点でした。特に、食べ物!それから、初対面でも他のアジア系の人とすぐ仲良くなれるのもメリットです。

 

(3)アジア人―とくに僕の親の世代-は「心のケア」について話さない傾向があります。僕の両親は中国からの移民一世として、想像を絶する苦労してきましたが、そのような苦労話は子供にはしません。その代わりに、子どもにも勤勉であることを要求します。だから、僕は疲れていてもリラックスすることに罪悪感を覚えてしまいます。

 

アジア人はLGBTの事をあまり話したがらないように思います。LGBTAsAmは家族から受け入れてもらえず、苦労するとも聞きます。僕は21歳で初めてカミングアウトしました。ちょっと遅いですよね。親にショックを与えたくないという思いで、言うのをずっとためらっていました。ありがたいことに、僕の親にとっては、大きな問題ではありませんでしたが、カミングアウトする瞬間は本当に緊張しました。

 

アジア系の男性とアフリカ系の女性にとって、恋人を見つけることは難しいです。ゲイのアジア人男性にとっては、特に難しいです。アジア人というだけで拒絶されるか、またはフェチの対象にされるかです。余談ですが、アジア人男性だけと付き合う白人ゲイ男性を「ライスクイーン」、白人男性とだけ付き合うアジア人ゲイ男性を「ポテトクイーン」と言うそうです。

 

(4)僕は中国でも日本でも違和感を感じました。どちらの国も、すごく人口密度が高いですよね、それが衝撃的でした。ティーンエイジャーとして初めて中国に行ったとき、いかに自分が「アメリカ人」なのかという事実に気づきました。僕の身振り・手振り、服装、アイコンタクトなどが、浮いていることがよくわかりました。中国で一番ショックだったのは、交通渋滞のひどさ、人々の声の大きさ、都市の中心部以外の不衛生な状況です。日本では逆に、すべてが規則正しいということにショックを受けました。「日本には様々な暗黙の了解がある」とは聞いていましたが、それを実際に目の当たりにしたときは本当にびっくりしました。

 

(5)これは僕にとって難しい問題です。最近ハーバード大学のAsAm学生に対する逆差別訴訟が明るみに出た時、その新聞記事を読むことを避けていました。この問題に関して、正しい回答などというものはありません。でも、あの訴訟に関して言えば、大学側の立場をより支持します。大学、特に私立大学は、自分たちが欲しい学生を選ぶ自由があります。カリフォルニア技術大学など、アジア人の比率に上限を設けていない大学は、学生がアジア人ばかりで単調な雰囲気だと聞いたこともあります。試験の成績も非常に重要ですが、卒業後にいろんな分野で活躍する人材を育てるためには、テストの点数以外の基準を取り入れ、多様な学生を受け入れるべきです。

 

(6)車の運転が下手、男性はなよなよしていて女性は従順、教育ママ、数学が得意、内気、内向的、アジア人はみんな同じ顔、など、色々なステレオタイプがあります。中には当たっているのもあるし、そうじゃないのもあります。いずれにせよ、人々を十把一絡げにすることはよくないと思います。誰もが一個人として尊重されるべきです。