「人々」の故郷ーCalabar, Nigeria | アフリカさるく紀行

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アフリカ約30カ国を陸路で走破する。オーバーランドトラックによるアフリカ1周さるく旅です。「さるく」とは長崎の方言で、歩いて観て周ることを意味します。



 ベニンシティを後にしてナイジェリアとカメルーンの国境付近の町カラバールにやってきました。他の奴隷貿易や植民地における中心基地と同じように、西洋的な建築物がいくつも立ち並んでおり、ナイジェリアの他の都市とは極端に雰囲気が異なります。



最古のバントゥー世界

 このカラバールを含むナイジェリアとカメルーンの国境付近がバントゥーと呼ばれる人々の発祥の地だと言われています。バントゥーとは言うまでもなくバントゥー語を話す人々(バントゥー語族)のことですが、これらの人々はナイジェリア以南のアフリカの国々において多数を占めています。中部アフリカのリンガフランカであるリンガラ語やコンゴ語、東アフリカのそれであるスワヒリ語、南アフリカでコイサン語の影響を受けたズールー語などの巨大な話者人口を持つ言語だけでなく、絶滅の危機にある少数話者言語も少なくありません。

 バントゥーとはバントゥー語で「人」の複数形にあたります。つまり、「人々」という意味になります。これらの「人々」はしばしば他民族を抑圧し抑圧されながら、また他民族と共存したり依存したりしながら、赤道以南のアフリカを中心に根付いてきました。そんな彼らの発祥を見ることができる遺跡を訪れました。

 この遺跡で残されていた石像は、まるで地面から生えているかのように地表にぽっこりと顔を出しています。ガイドの説明によると、バントゥーの人々の生命観を表しているそうです。そういわれてみると、さながら沢山の人が豊かなナイジェリアの大地から生まれてきているようにも見えます。ガイドは付け加えて、最古のバントゥー系の人がいたという証拠に2000年前に使われていたという通貨(鉄の輪っかのようなもの)を見せてくれました。しかしながら、これは少々信頼性に欠けるというか、作り物の様な気がしました。

 この遺跡だけでなくアフリカの様々な遺跡で見られる、近年になって新たに作られたように見える模倣品は、頭ごなしに否定することもできないし、まして容易に信用することもできません。しかし、これらの模倣品がその史跡を囲む社会の中でどのように受容されるのか、受け入れられる(もしくは拒まれる)過程や環境に注目することで、その地域で暮らす人々の歴史観が垣間見える気がします。このように模倣品を巡る歴史認識は、まず模倣されたものに対して「模倣品である」ということを想定しないで(無視して)、ひとつのモノとして扱っていく必要があります。物質的には模倣品であるが、認識としてオリジナル(もしくは「正統」)と認められているということも十分ありえます。人文学においてはモノは認識する人がいて初めて議論の上に出てくるので、物質としてのモノだけでなく、認識の上でのモノをとりまく構造を分析することは十分に意義があることだと思います。



「人々」は振り向かない

 さて、バントゥーの人々の話に戻りましょう。この地域を故郷とする原バントゥーの人々が拡大していった要因はいくつか挙げられていますが、その一つとして農業生産性の向上、とりわけ東南アジアから流入したプランテーン・バナナの影響が大きかったと言われています。熱帯アフリカに行ったことがある人ならわかると思いますが、プランテーン・バナナはほぼどこにいても見ることができます。私自身セネガルあたりからナイジェリアまでバナナを見ないところはほとんどなかったように思います。もちろん、これから旅をするカメルーンやガボンにも同様にバナナは見られると思います。この生命力の強い、人間にとっては収穫効率が非常に高い作物を得て原バントゥーは一気に拡大していきました。このことについては宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』(2004 講談社)の第三章で詳しく書かれています。

 このようにして拡大したバントゥーの人々は先に熱帯雨林に暮らしていた狩猟採集民を取り囲んだり、押し出したりしながら現在の南アフリカに当たる地域まで到達しました。その後彼らはいくつもの地域、コミュニティに別れて、それぞれ独自の社会、文化を築きながら他民族だけでなく同一の起源を持つバントゥー系民族と衝突したり、あるいは共存し依存しながら今日まで暮らしてきました。現在世界的に見てみると奴隷貿易によって現在のコンゴ共和国からアンゴラに至る海岸からアメリカ大陸へと運ばれた人々、そしてアフリカ大陸に今も暮らしている人、近年になって欧米へ移民した人などバントゥーを起源に持つ人は世界中に拡散して、また人口を増大させています。

 一人のアフリカ史を学ぶ学徒として、カラバールというバントゥーの故郷は大変魅力的な場所でありますが、当のバントゥー系の人々にとってはそれほど気にされていないように思います。それは私たちが「アジア人のルーツはここである!」という場所を定義されても、あまり自分の故郷として実感できないことに似ていると思います。そもそもバントゥーという括りは、ひとつのアイデンテティを共有するには大きすぎるし、分離してからあまりにも長い時間が経っています。彼らにとってバントゥーの原点は、もはや振り返れる場所ではなくなっていると言えるでしょう。そう頭では理解できていても、やはり私がこの土地に、そして今もここで暮らす人に魅かれてしまうのは、自立したダイナミックなアフリカ史の原点を感じる空間であるからかもしれません。