都市と遺跡と観光ーAbomey, Benin | アフリカさるく紀行

アフリカさるく紀行

アフリカ約30カ国を陸路で走破する。オーバーランドトラックによるアフリカ1周さるく旅です。「さるく」とは長崎の方言で、歩いて観て周ることを意味します。



 ロメを出発してから1時間強でベナンへの国境へとたどり着きました。トーゴとベナンはガーナとナイジェリアという強国に挟まれた双子のような国ですが、1時間の時差があります。モロッコからトーゴまでは日本時刻ー9時間でしたが、ベナンからはー8時間となり少しだけ日本の時刻に近づくのです。ちなみに、”Benin"と書いて「ベニン」と本当は発音するのですが、ナイジェリアにある “Benin City”(正式名称「ベニン・シティ」ですが、慣用的に”City”は省かれる)と混同しやすいため、「ベナン」と表記されています。ちなみに、ベニン王国があった地はベナンではなく、ナイジェリアのベニン・シティです。名前が同じなために、なんとも分かりにくい地名事情となっています。


王宮のある町

 海岸部から進路を南に取り、王宮のある町アボメー(Abomey)にやってきました。海岸部の緑豊かなマングローブ林とは風景がガラリと変わり、乾燥した砂埃が吹く土地です。現在の町は王宮から少しばかり離れたところにあります。町自体はかつてそこで王国が栄えていたのかわからないほど「地味な町」です。町の規模はそれほど小さくはないのですが、アフリカのどの国の歴史教科書でも太字で取り上げられている王国があった都市としては非常に静かな町です。

 これは何もアボメーだけではないのですが、アフリカの多くの国において首都(もしくはリゾート地)から離れた場所にある史跡はその歴史的重要度に関わらず、まだまだ観光地として整備されていない所が少なくありません。また整備がある程度進んでいる場所でも、保存状態が思わしくない場合が多々あります。もちろん、それには技術的、金銭的問題もありますが、アフリカにおける「観光」という概念の捉え方がそもそも西洋世界と大きく異なるとも考えられます。



日本人と観光

 ここで少し話題を日本に移したいと思います。日本人の近代における観光の捉え方を歴史的にひも解くと、昭和初期に遡ると言われています。もともと日本人は観光が好きな民族で、お伊勢参りや日光参りというようないわゆる巡礼型の旅はかなり古くから行われていました。それが、明治、大正を経て昭和に入ってくると西洋世界の影響を大きく受けることになります。

 当時帝国主義に走った大日本帝国は大陸進出に躍起になっていたことはご存知だと思います。大陸進出の鍵は武力を持って満州を制圧するだけでなく、日本人の関心を大陸へと誘うことでした。ここで帝国政府は満州旅行というプロジェクトが企画されるのです。このプロジェクトは「大日本帝国国民として新たな国の領土を見てみたい」という動機を誘い、人々を満州へと向かわせました。これまでの巡礼型の旅と異なり、真新しいもの、珍しいものを見に行くという近代的観光の旅が確立された瞬間でした。「自国を知りたい、世界を知りたい」という欲求に狩られた、西洋的帝国主義的思想の内に生まれた観光観であったと思います。

 この観光に対する感覚は今でも大きくは変化していないように思えます。巡礼型の観光は温泉ツアーに取って代わり、近代的観光は1970年の大阪万博に始まるイベント・アトラクション型の観光へと形式上の変化をしていきました。このことは今日現在でも観光旅行と言えば箱根や城崎、もしくはディズニーランドやUSJが真っ先に挙げられることからも容易に想像できると思います。海外旅行も形式的には上記二つのどちらかに当てはまるように思えます。ハワイ型の観光は温泉ツアーと同タイプであるし、アフリカでのサファリやヨーロッパでの音楽会を目的とする観光は近代的観光の範疇に入ると思います。

 21世紀に入って少しずつ新たな観光観が台頭してきました。それが「長崎さるく」や「大阪あそ歩」に代表される、再発見型の観光です。この「再発見」という言葉はここ10年でかなり多くの観光パンフレットに使われていると思います。「ふるさと再発見」「わがまち再発見」というフレーズは、誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。経済的困窮の中、よりリーズナブルな観光を求めて、ふいに足下の宝箱に気づいたのです。



アフリカと観光

 さて、話をアフリカへと戻します。上記のような日本人の観光観とアフリカにおける観光観は全くと言っていいほど異なると言えるでしょう。領土的野心を出発点にする近代的観光はアフリカには根付いていません。さらに言うと、もともとアフリカには観光という概念があったかすら怪しいと思います。ここで一応断っておきたいのですが、近代的観光が根付いていなかったり、そもそも観光という概念が存在しないというのは、決して文化的欠落ではありません。「どちらか一方にあって、もう一方にないものは欠落である」という自文化中心主義的判断は残念ながら今日でも頻繁に見られますが、それでは本当に異文化を理解することはできません。まずは異文化を持つ人たちは自文化と異なる社会背景を持っており、思考の道筋が違うのだということを念頭におかなければなりません。自文化のジョーシキを疑ってこそ、ようやく異文化が理解できるのです。

 私がアフリカの史跡を巡るときに心がけていることは、その史跡の周りに住む人々、土地をよく観察するということです。そうすることで自然とその都市の人々の歴史に対する思いが見えてくるように思います。史跡が整備されていないからといって、決して彼らが歴史を無下に思っているわけではありません。金銭や労力の掛け方と彼らの歴史的価値観は必ずしも一致しません。アフリカに文化の中で、具体的な事物よりも抽象的な事象に重きをおくものは少なくありません。つまり、史跡として残った建造物よりも、あるいはその土地そのものよりも、特定の権威を受け継いだ人々によって作り出される「場」が大切なのです。このような形の見えない「場」の構造を理解するのは容易ではありませんが、アフリカの史跡と彼らの観光観を見つめることで、少しずつ明らかになってくるはずです。



王宮の歴史

 アフリカと日本の観光観を考えながら町を歩いて、再び王宮へと戻ってきました。王宮には例のごとくキャプション付きの説明はほとんどなく、ガイドが案内してくれます。建物の壁画は王のシンボルが描かれるとともに、争いの歴史がかなり生々しく刻まれています。その壁画の全てがダホメ王国の天敵であるヨルバ人(現在のベナン東部からナイジェリア南西部にかけて居住している人々)を惨殺する様子を描いたものです。ちなみに、ヨルバ人を表す特徴として頬に数本の焼き印(というよりも切り傷のようなもの)が描かれていますが、この身体装飾は今でも一部のヨルバ人によって行われています。装飾のデザインによって自己の出自がわかると言います。

 ダホメ王国はヨルバ人の王国との戦いを通して多くの奴隷を得ました。それらの奴隷はヨーロッパの奴隷船に売り渡され、若い男15人で大砲一門と等価であったと言われています。ガイドは一通り解説を終えると、現在の王の所在について教えてくれました。現在の王はアボメーから離れた都市に住んでいますが、今も大きな権威を持っていると言います。こういった権威が今日まで続いているのは、王を崇拝させるための装置が非常に充実しているからだと思います。王宮跡そのものや、英雄伝にまつわる杖や床几、武器という「モノ」だけでなく、祖霊との交信をする儀礼も、妻をもって媒介させる詔も王を神聖化させる重要な装置だと思います。

 儀礼の場や王の寝室など建物についての説明をある程度受けた後、室内に設置された資料室へと案内されました。王のパラソル、床几、男根像、半身男半身女の像、戦いの様子を描いたタペストリーなど展示品ひとつひとつが興味深いものでしたが、ここで全て解説する訳にはいかないので紹介するに留めたいと思います。展示品について総じて言うなれば、先に述べたようにほとんどのものが王を崇拝するための装置としてのはたらきを担ったものだということです。



 アフリカの社会と歴史を見つめ直し、さらに観光について考える作業は容易なものではありません。というのも、何度も述べてきたように「観光」という概念そのものの捉え方が全く違うからです。また、付け加えておかなければならないのは、今や世界中のどこにいようともグローバル化の影響の下にあるということです。私自身事例を見てないので何とも言えませんが、アフリカの人々のこれまでの観光観とグローバル化の中で生まれてきた新たな観光観の相違の中で歪みが生まれてくることも少なくないと思われます。その中でアフリカにある史跡が今後どのように扱われていくのか注目することは、アフリカ史の観点からも、また世界史的観点から見ても非常に重要なことだと思います。今後もアフリカの史跡からは目が離せません。