前回まで、バラモン哲学の中のヴァイシェーシカ派が、存在の構成要素についての実在説を主張し、その中に「普遍」も入るということを見てきました。そして「普遍」が実在するということについて感ずる違和感にも触れてきました。

 普遍が実在するとは、どのようなことなのか?

 今回は、西欧スコラ哲学における「普遍論争」を、山内志朗氏著の「普遍論争」を参考図書にしながら、普遍の実在問題について考えてみたいと思います。(同著作についての誤解や齟齬もあるかもしれませんが)

 山内氏によると、普遍の定義は「複数のものの述語となるもの」です。

 例えば
 「ソクラテスは人間である」
 「勝山号は馬である」(余談ですが、勝山号は「めんこい仔馬」のモデルとなった実在の軍馬)

 と言ったときの「人間」や「馬」が、普遍となります。

 そして、普遍には、ざっくり言って下表のような3つの種類の普遍があるとされています。(他にも違う種類の普遍が登場しているが、話が複雑になるので、マイナーなものは割愛)


普遍の分類


 普遍にもいろいろある(上記で3種類、いろいろといっても各普遍概念が指し示すところの広さ、狭さのことではなく)というのも、大変新鮮な見方で驚きでした。それぞれを見ていきたいと思います。
 
 1番目は、「事物の前の普遍」であり、プラトンに帰せられる「イデア」に当たるものですが、このようなストレートで素朴(?)な普遍実在論、事物(個物)が存在する前に在るとする普遍(イデア)の実在論を主張する人は少なくなっていったとのことです。

 2番目は、上記普遍の定義にあるような、「人間」や「馬」といった「述語となるもの」としての普遍です。これについては実在論者であろうが唯名論者であろうが、「普遍」であることについて異論はなく、その実在性が議論のテーマとなることはなかったようです。

 確かに1番目、2番目の普遍の実在性を想定するには違和感を感じますが、一般論としての「普遍論争」の解説には、普遍の実在論は、1番目や2番目の普遍の実在性を主張しているとするものが多かったように感じます。

 これと異なり、山内氏によれば、いわゆる中世スコラ哲学の「普遍論争」で論点になったのは、3番の普遍(これは普遍の定義からすれば、普遍には当たらないとする主張が有力)の実在性であるとのことです。

 この“3番目の普遍は”、簡潔に言えば普遍である「馬」(例えば)であるところに対応する、「馬性」のことですね。「馬」と「馬性」、個物との関係をあえて誤解を恐れず図式すると次のようになるのでしょうか?
 

 
馬性

「馬性」については、イスラムの有名な哲学者であるイブン・スィーナー(アヴィセンナ)が

「馬性は馬性以外の何物でもないということになる。というのも馬性はそれ自体では多なるものでも一なるものでもなく、可感的な事物の内に存在するものでも、精神のうちに存在するものでも、馬性の中に含まれていて、可能態であったり、現実態であったりするものでもない。そうでなくてそれ自体は馬性でしかないのである」

と言っていますが、「馬性」は普遍でもなければ、個物の中にあるものでもないということだと思います。

この「馬性」が、何らかの形で個物の側にあるとするのが「実在論」であり、認識のうちにあるとするのが「唯名論」ということになるのでしょうか?そしていわゆる「実在論者」は、この「馬性」を「共通本性」や「単独で考察された本性」などと呼んだものと考えられます。

 イスラムや西欧世界では、このようなち密な議論がなされてきたようですが、翻ってインド哲学の世界ではどうだったのでしょうか。