前回は、ヴァイシェーシカにおける「同」=普遍の意義について触れ、関連して普遍論争:「普遍」は実在か、それとも唯名的かについて触れました。

いわゆる普遍論争における「実在論」と「唯名論」の対比は一般論的に言えば次のようになると考えられます。(ブログ子の独断と偏見を含む)

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実在論、唯名論


 実在論と唯名論の定義は、とり急ぎ、いわゆる一般的、通俗的なものを掲載しましたが、じつは両論の対立論争のポイントはここに記述した点ではないという見方があり、普遍論争は誤解されてきたといわれています。しかし今そのことについて論ずると話がごちゃごちゃになるので、この場面では、一般的な定義を流用しています。(中世スコラ哲学の普遍論争の深堀は別の機会としたいと思います)

 仏教は唯名論的であり、ヴァイシェーシカ派は実在論であると区分けされますが、普遍が実在するという「実在論」に違和感があると前回のブログでは書きました。

 例えば個別の「犬」は、「ポチ」や「ハチ」「しろ」など、眼前する個別的な犬は感覚的(可感的)にとらえることができ、「実在」(実在の定義づけが難しい・・・)するかどうかはともかくとして、個別の犬は、(仮にしろ)存在はしているといえます。しかしそれらに共通する「普遍的な犬」や「犬性」(犬であるところのそのもの)が、「個別の犬に先立って実在する」といわれると、「一体それはどのように実在するのか。どこにあるのだ。あるいは実在をどのように見つけるのか」という疑問がわいてきます。

 普遍論争の発端は新プラトン主義者・ポルフュリオス(233~305年)の「イサゴーケー」(アリストテレス、カテゴリー論入門)の下記の一説にあるといわれています。

「例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また[非物体的なものであるのならば]離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避することにする」!!!?
(回避しないでほしかったですね)

 そして、実在論的な見方は、プラトンに遡るといわれるので、プラトンのイデア論を少し見てみたいと思います。

 イデアとは、元来は「見られるもの」の意味で、ものの見えるさまとしての姿、形、形状、さらに種類や形状を意味するといいます。(岩波哲学・思想事典)

「プラトンの教説の中には、その先行者たちに由来しているとは見なし得ないところの、非常に重要なものが存在する。それは『イデア』あるいは『形相』の説である。その説は半ば論理的であり、半ば形而上学的でもあるのだが、論理的な部分とは、一般性を持つ語の意味に関したものである。『これは猫だ』と真に言いうるような個々の動物は、多数存在している。われわれは『猫』という語で何を意味するのであろうか?明らかにそれは、それぞれの個別的の猫とは異なった何物かである。ある動物が猫であるのは、それがすべての猫に共通する一般的な性質を、与り持つからであるように思われる。言語というものは、『猫』というような一般的な語なしに成り立たないのであり、そのような語は明らかに無意味ではない。しかしもし『猫』という語が何かを意味するとすれば、それはこの猫やあの猫を指すのではなく、何らかの普遍的な猫性というものを意味するわけだ。そして『猫』は、ある個別的な猫が生まれても生まれるものではなく、また個別的な猫が死ぬときに死ぬものでもない。事実『猫』は空間や時間に位置を持たず、永遠である。というのがイデア説の論理的な部分であり…」(「西洋哲学史Ⅰ、ラッセル著」

 「概念や判断が対応する理解内容は、ただ純粋に思惟のみによって捉えられる不変的なものであり、かつ人間の思考からは独立して存立するものなのである。プラトンはこれを『イデア』と呼んだ。それは精神によって観られうる本質を意味する。イデアは、真の意味で存在するものである。すなわち、可感的、質料的な世界に拘束されることはなく、むしろそのような世界を担い、形成する。可感的なものから独立したこのような本質の存在を考えねばならない必然性は、可感的なものの把握自体がこのような本質、つまりイデアの認識を前提として初めて可能だというところにある」(「西洋古代・中世哲学史」 クラウス・リーゼンフーバー著)

 「イデアは不変のものであり、それゆえあらゆるイデアの認識、とりわけ善のイデアの認識を、絶えざる変化の下にある感覚的知覚から得ることはできない。したがって、その認識の起源は魂の外にではなく、魂の内奥に求めなければならない。つまり、イデアの認識は、もともと魂の内に内在していた知が『想い起される』ことによって得られたものなのである。プラトンはこのような『想起』による認識をその起源へと遡及し、魂は身体と結びついてこの世界に誕生する以前の状態においてイデアを直接見ていたのだ、と述べている」(「西洋古代・中世哲学史」 クラウス・リーゼンフーバー著)


 上記の解説を読んでいえるのは、この世にある可感的なもの、例えば犬や猫や人間などの存在はすべて一時的であって、常に変化して恒常的ではなく、そしてやがて消滅する。それなのに人の認識では、個別の存在について犬や猫や人間などの普遍についての認識が生ずる。それがなぜかといえば個別の存在は、永遠不滅の「イデア」(idea):普遍的なもの―の複製・仮象であり、魂がこのイデアを想い起す―ということではないかと思います。

 それにしても、気軽に普遍(イデア)が「実在」すると言ったりするが、普遍が「実在」するとはいったいどのようなことなのでしょうか?ヴァイシェーシカがいうところの「普遍(同)が恒存する」とは、どのようなことを言うのでしょうか?

 まさか固体物のように、手で触ったり、肉眼で見たり、することができるということではないでしょう。リーゼンフーバー氏の書き方からすれば、イデアは魂の認識の対象ではあるが、不滅の魂に内在していた知が「想い起す」ことによってそれが認識されるという。そうすると人間の知的活動によって把握される観念的、概念的なものであると考えられるが、それでは「実在論」と「唯名論」との違いはいったいどこにあるのでしょうか?(プラトンのイデア論が実在論的であるとして)それほど違いはないようにも思えてしまいます。

 もう少し「実在論」対「唯名論」の普遍論争を点検してみる必要がありそうです。

参考文献:「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「はじめてのインド哲学」(立川武蔵著)、「空の思想史」(立川武蔵著)、「普遍論争」(山内志朗著)、」「西洋古代・中世哲学史」(クラウス・リーゼンフーバー著)など