引き続き、「諸法実相」「十如是」です。


 前回、「十如是」は「実体論」的ではなく、「関係論」的であり、「縁起」思想に基づいているとみられることに触れました。


 さらに「縁起」との関連性がみられるのが、天台大師の「三転読」です。これは十如是の漢文の読み方の順序を三種類に変えて読み、空仮中の三諦にリンクさせる読み方です。


 これはまさに漢字でなければできない、サンスクリット(梵文)では決してできない、アクロバティックな論理展開の仕方といえます。


 天台大師の作成した(口述筆記も含めて)文を読んでいると、まさに融通無礙、ここまでしていいのかみたいなところもあります。またインドの仏教と中国の仏教を一緒にして議論していいのか、という懸念もあります。


 しかしながら、私は現時点では暫定的に、「縁起」=「空仮中の三諦」=「諸法実相」=「一念三千」が仏法のコアであると考えており、ここから外れていなければ、地域はどこであれ、原則から外れていないと受け止めて進めていきたいと思っています。


 「法華玄義」で、天台大師の三転読を見てみましょう。


 「義に依って文を読むに及(およ)そ三転有り。一に云わく、是相如、是性如、乃至是報如なり。二に云わく、如是相、如是性、乃至如是報なり。三に云わく、相如是、性如是、乃至報如是なり。若し皆如と称するは、如は不異と名づく、即空の義なり。若し如是相、如是性と作すは、空の相性を点じて名字施設(せせつ)し、邐迤(りい)不同なるは即仮の義なり。若し相如是と作すは、中道実相の是に如す。即中の義なり」


 妙法蓮華経の十如是原文を素直に受け取れば、「如是相、如是性、如是体・・・」といっているのですが、天台大師はまずこれを「是相如、是性如、乃至是報如」=「是の相は如なり、是の性は如なり、・・・是の報は如なり」というように順序を変えて読みます。


 「如なり」とは不異、無差別平等を顕すので、すなわち「空」諦の義です。


 次に「如是相、如是性、乃至如是報」=「是の如き相、是の如き性・・・是の如き報」と読みます。


 これは、相、性、体等それぞれが差別相として出てくるので、「仮」諦にあたります。


 三番目は「相如是、性如是、乃至報如是」=「相は是に如す、性は是に如す、・・・報は是に如す」と読みます。是は中道実相であり、相、性、体等がすべて中道実相と同じ(如)であるとしていますので、「中」道の義にあたります。


 これで、空仮中の三諦が円融相即していることになるわけでしょうが、鳩摩羅什も後にこのように扱われるとは思わなかったでしょう。