また引き続き、しつこく法(ダルマ)について考えていますが、今回から大乗経典の「妙法蓮華経」に関連させて、法について考えていきたいと思います。


 妙法蓮華経は、「サダルマ・プンダリカ・スートラ」(Sadharmapundarika=正しき白蓮の如き教え)を鳩摩羅什が漢訳した経典であり、二十八品、漢字七万字以上の大部の経典です。


 妙法蓮華経は、簡単に言えば、前半十四品は迹門で、「開三顕一」(声聞、縁覚、菩薩の三乗を法華経以前に説いたのは方便であり、仏は衆生を一仏乗に入らせることが本旨であること)を説いています。


 後半十四品を本門といい「開近顕遠」(釈尊は伽耶始成ではなく、五百塵点劫という途方もない過去に成道したことをあかす)を説いています。(あくまで要点だけです)


 法(ダルマ)について、特に注目すべきと考えている概念は「諸法実相」です。妙法蓮華経を中心に教学を確立した天台宗は、天台実相論と呼ばれることもあります。諸法実相の概念は大乗仏教の中で重要な概念といえます。


ところが、この「諸法実相」の法門については、大きな疑問というか、課題があります。それは、サンスクリットのサダルマプンダリカと、鳩摩羅什が翻訳した漢文の妙法蓮華経との間に、大きな違いがあることです。


 その差異は、一部の言葉を改変、省略したとか、意訳したとかのレベルを超えており、ある意味では鳩摩羅什がその部分を創作したといっても過言ではないでしょう。

 

 では、具体的にどのようになっているのか、みてみましょう。


(1)ここでいう法(ダルマ)とは何か?


 ずっと法(ダルマ)について考えてきましたので、諸法実相でいうところの「法(ダルマ)とは何か」、をまず問題とします。


 法の意味の一つは「もの(森羅万象)」とか「現象」ということ。もう一つは「(仏)の教え」ということが考えられますが、上記サダルマ・プンダリカで和訳されてもいるように、ここは前者の「もの」「現象」ということでしょう。


 立川武蔵氏は「最澄と空海」の中で、通常「教え」には「ラクシャナ」(laksana,特質、相)、「スヴァバーヴァ」(avabhava、本性、自性)という用語は使用しないのに、サダルマ・プンダリカでは使われているということをその根拠として挙げています。


 ところで、以前「説一切有部」のところでは、法(ダルマ)について、「表に出てくる現象」と「その現象を支える要素」を割合明確に分けて見ている、表に出てくる現象面は変化し無常だが、それを支える要素(法、もしくは法体)は自性を持ち実体がある、という見方をしていると理解していました。


 大乗仏教では「諸法皆空」とまとめて言い切ってしまっているので、「表に出てくる現象」と「その現象を支える要素」を分ける意義、ありがたみは、なくなったというところでしょうか?

  

(2)梵文(サンスクリット)「サダルマ・プンダリカ」と漢文「妙法蓮華経」では何が違うのか?


 ①漢文「実相」にあたる言葉が梵文にない。

 梵文ではsarva-dharma(すべてのダルマ:もの、現象)=漢文で「諸法」にあたる語、はあるが、

 「実相」にあたる語はありません。


 ②漢文「十如是」のような体系は、梵文にはない。

 十如是にあたる部分として、梵文では「何であり」「どのようなものであり」「いかなるものに似ており」「いかなる特徴(ラクシャナ)があり」「いかなる本質(スヴァバーヴァ)を持っているか」と5つを挙げているが、漢文のような内容とは異なるし、十の体系として述べているわけではありません。




(3)なぜ漢文「十如是」のような体系となったのか?

 

 鳩摩羅什が、漢訳する際に梵文に物足りなさを感じ、「大智度論」の記述を引用して創作(補足)したという説が、よく言われています。


  しかし「大智度論」はサンスクリットの原典は見つからず、チベット語訳もなく、鳩摩羅什の漢訳が存在するのみで、梅原猛氏のように「大智度論は鳩摩羅什が作成した」と主張する人もいるぐらいです。おそらくは、竜樹の思想に鳩摩羅什がかなり補作したのではないかと考えられますが、そうなると、「諸法実相、十如是」は鳩摩羅什思想という可能性もゼロではなくなります。


以下次回へ。