「法」(ダルマ)について考えています。今回も般若心経を中心にして、大乗仏教の「法」(ダルマ)について引き続き考えたいと思います。


 今回は、般若心経でもっとも有名な「色即是空 空即是色」の偈の部分について取り上げます。


 「法」(ダルマ)について般若心経の説くところは、前回の「五蘊皆空」で書いたことと、「色即是空・・・」では基本的に同じと思います。


 少し脱線しますが、以前、ある科学者が、テレビ番組や書物で、「色即是空・・・」の部分を取り上げ、「空は粒子である」と解釈・説明しているのを拝見したことがあります。


 「粒子」であるという説明をされたのは、(こうした物理学については門外漢なので、私にコメントする資格はありませんが、素人として推測するに)粒子が実体としてとらえがたく、不確定な性格を持っているということから、そのような説明をされたものと思われます。 しかしながら、「粒子である」というと、私は、説一切有部やバラモン教が主張している「極微」(paramanu)を連想してしまい、違和感が残ります。「粒子である」とは、突き詰めて考えると「色」(rupa)の世界から抜け切れていないのではないでしょうか。

 


 


 さて、、「色即是空・・・」の部分についてですが、玄奘が漢訳したものと、サンスクリットの原文とでは大きな違いがあります。下記の表に記しますが、3つある句のうち、第一番目の句が玄奘訳にはないのです。


             「般若心経・金剛般若経(中村元、紀野一義)」「空の思想史(立川武蔵)」等を参照にして作成


  玄奘が、なぜ第一句を省いたのか、よくわかりません。初歩的な人が訳したならば、似たような句がつながっているので、省略した、という言い方も通用するかもしれませんが、玄奘ですから、まさかそんなことがあるはずもありません。


 玄奘は、他の訳経者と比較して、原典への忠実性に特にこだわったといわれています。例えば阿弥陀経について鳩摩羅什が28文字で漢訳しているところ、玄奘は、ほぼ4倍の108文字を費やして漢訳しているとのことです。また、鳩摩羅什が「霊鷲山」(Gridhra-kuta、グリドラクータ)のことを、「耆闍崛山(ぎじゃっくせん)」と訳しているのに対し、玄奘は「姞栗陀羅矩咤山(ぐりだらくたせん)と訳しています。(「羅什と玄奘」木村宣彰)忠実ではあるものの、読誦して調子が出ないような訳出の仕方です。


 このような人が、なぜ般若心経の上記の句を省いたのか、謎は深まるばかりです。


 さて、サンスクリットのオリジナル通りに、3つの句があるとして、それらの意義を確認したいと思います。これは特に、表中の最下段(迷と悟のベクトル)のところに関連します。


【第一句目】(表の中で「空」とした列。左側の列)

 現実世界から聖化された世界に、思索や修業を経て向うベクトルと考えられます。


 六道、あるいは説一切有部、バラモン教のように現実世界(色)が「有」=実有であるという幻想・考え方から離れて、現実世界は空であるという真理にたどり着いた―ということだと思います。



【第二句目】(表の中で「仮」とした列。中央の列)

 真理である空から立ち返って、現実世界に向かうベクトルです。

 

 しかし現実世界とはいっても、空を踏まえての現実世界であり、すでに「有」=実有であるという幻想は乗り越えており、「仮=仮名」として、現実世界に向かう―ということだと思います。


 自らの現実認識は、「仮名」すなわち、言語機能の虚構性(戯論:けろん=プラパンチャ)に基づいて認識しているという自覚に立ち、世界を見ているということでしょう。


【第三句目】(表の中で「中」とした列。右側の列)

 色、現実世界が、そのままで真理である空であるという、悟りの立場に立った世界認識と思います。


 「この現実世界の奥に、何か不可思議な宇宙の理法や、宇宙実体がある、宇宙生命の法則がある」などという考え方ではなく、この現実世界がそのまま真実の姿(実相)である、という見方であると考えています。