今回は、五位七十五法の最終回、「無為法」についてです。


 無為法は有為法に対立する概念で、これまで確認してきた色法、心法、心所法、心不相応行法、に含まれる七十二法はすべて有為法です。


 有為(samskrta)法とは、さまざまな因果関係の上に存立するもののことで、「諸行」(諸行無常の諸行)と同義であるといいます。


 これに対して無為法(asamskrta)は、「因果関係を超えた、因果関係を離れた、もの」のことを言います。不生不滅であり、言い方を変えれば「存在を超えたもの」ということでしょう。


 阿毘達磨倶舎論では

「有漏と無漏との法あり。道を除いて余の有為は、彼に於いて漏が随増す。故に説きて有漏と名づく。無漏は謂く道諦、及び三種の無為なり。謂く虚空と二滅となり。此の中にて空は無礙なり。択滅は謂く離繋なり。繋の事に随って各別なり。畢竟じて当生を礙うるに、別に非択滅を得」(分別界品第一)

とあります。


要するに、無為法には虚空と二滅(択滅と非択滅)の三つがあるということです。それぞれ個別にみていきます。


①「虚空」:「色」がその中で存し動く「色」の存在する場としての空間のことです。一切のものを包含して、障礙なく活動させ、成立破壊にもなんら障害がない、そのような場であるということでしょう。


 宇井伯壽氏は、「太陽系の一切を他に移したと想像するとき、そのあとに残る空虚な場所を実体としての無為法となしたもの」(佛教汎論)と例示していますが、相対性理論を知ってしまった我々世代からするとこの説明は何とも悩ましいです。「太陽系の一切・・・」とあるが、重力やエネルギーを含めてのものなのか、とすると、空間のゆがみと重力の関係、重力と時間遅延の関係をどう見ていくのか。重力から離れた純粋な空間というものが成立するのかどうなのか、また考えなければなりませんね。


②「択滅(ちゃくめつ)無為」:法を弁別する(択)無漏の智慧によって個々の煩悩の拘束から離れる(離繋)ときに得られる滅のこと、つまり涅槃のことです。


③「非択滅(ひちゃくめつ)無為」:これは阿毘達磨に特有な特異な見方ですね。非択滅ですので択力(法を弁別する力)によらない無為法です。


 「縁欠不生」ともいい、因縁を欠いたので、生ずべき法も生ずることなく、長く未来にとどまって現在に生起することがない、ことをいいます。


 これはアビダルマが「二心の併起を認めない」「ダルマは三世に実有であり、しかも刹那に消滅するものであること」という原則から出てきた考え方のようです。


 例えば、ある刹那に心法が「眼識」として働き(狭義の)「色法」(いろかたち)を捉えたとすると、その刹那の他の「触」「香」「味」…等の縁は刹那に滅しますので、それらを対象とするはずの「身識」「鼻識」「舌識」は永遠に生起できず(畢竟不生の法)、未来にとどまることになります。これを非択滅の無為法として実体視するのです。


 アビダルマのこだわりは、こんなところにも表れていますね。