矛盾するものとはいえ、経典には、無我、五蘊、縁起を説くものが有ると同時に、輪廻思想を説くものも有ります。輪廻転生思想が入ってきたことについては、歴史的経緯があるものと推測されますが、いずれにしても一切経に併存していることは確かであります。これについて、どのように考えるのか、和辻哲郎は、一つの経典でのやり取りを引用しています。


「かく色受想行識が無我であるといわるるならば、無我のなせる業はいかなる業に触れられるか」(雑阿含巻二)


これに対して釈迦は、このような疑問は、愚痴無明であると呼び、無常、苦、無我の法を説き、「かく観ずるものは解脱して真実智を生ずる、いわく、生はすでにつきた、梵行は完成せられた、なされるべきことはなされた、もはやこれ以上の存在は無いと知る、と」と言っています。


すなわち、業による輪廻思想は無明のうちにあるものであり、迷いであり、真実智に至っていない、ということであり、明の立場、悟りの立場に立てば、業による輪廻思想は成立しないということを言っているのです。