ウパニシャッドを源流とする輪廻転生、業、我(アートマン)のパッケージとなった思想は、説得力を持ち、インドに広まりました。そしてこの輪廻転生、業、我(アートマン)の思想は、釈迦が説いた縁起(因縁)から論理的に帰結する無我、空の思想とは相容れないものです。

和辻哲郎が「原始仏教の実践哲学」(岩波書店)において、このことを指摘しています。少し長いですが、下記に引用します


「輪廻思想と無我思想との調和が困難であるのは、輪廻思想が本来転生の道途において自己同一を保持せる「我」あるいは「霊魂」の信仰に基づくに対し、無我思想がかかる「我」あるいは「霊魂」の徹底的排除を主張するからである。しかしかく明瞭に異なれる二つの思想を調和させるということは、もともと不可能なことであって、問題となり得べきものでない。しかもこれが調和の困難として問題とされるのは、この二つの思想が一人のブッダの説いたものであり、従って内的に結合せるものでなくてはならないとする立場に立つゆえである。すなわち困難の真の所在()二つの思想が調和し得るや否やという点ではなくして、この二つの思想を一人のブッダに帰するという点である。しからば何ゆえに我々はこの二つの思想を一人の思想として解しなくてはならぬか。その理由は簡単である。阿含の経典は無我を説く経とともに輪廻思想を説く経をも含んでいる。ある経においては両者が混淆して説かれてさえもいる。そうして説者はいずれもブッダである。──ここで問題は原典批評の領域に移ってしまう。阿含の経典は果たしてブッダの思想を忠実に伝えたものであるか。ブッダを主人公とする経典が歴史的人物たる釈迦の思想と全然異なった思想を説くということはあり得ないか。原始教団の種々の異なった傾向、思潮などが、同じくブッダを主人公としつつも、全然異なった経典を作るということはあり得ないか。これらの問題の考察によって二つの異なった思想をいきなり一人に帰するという立場は根本的に批評されなくてはならぬ。二つの異なった思想はあくまでも二つの異なった思想であって、両者がともに原始教団において存したということは両者を内面的統一あるものとして解すべき義務を我我に負わすものではない。いわんや後代の教団が両者の調和に努力したということは、両者が本来調和せるものであったことの証拠ではなくして、むしろその反対である。」


バラモン教も仏法もごちゃまぜにして「インド哲学は深遠である」等と説く人がいますが、粗雑な印象をぬぐえません。