今回の大人の集団療育のテーマは偏見や差別について考えるものだった。

小学生の道徳でも習うように、偏見や差別はいけないことだ。しかし、具体的に、偏見や差別について考えていくと、自分は大丈夫かなと思うようになった。


今回参加した中でカウンセラーが言った「酸っぱい葡萄も甘い葡萄もある」という言葉が印象に残っている。この言葉は、偏見や差別を考えている中で、カウンセラーさんがふと放った言葉だ。葡萄という同じ食べ物、同じ葡萄であっても、酸っぱいものもあれば、甘いものもある。それは人も同じで、同じ人間という括りでも、性別も違えば、好きなものも、使う言語も違ってくる。人は、その中にか1つでも自分と違えば、「この人はおかしい!」「〇〇が好きなんて気持ち悪い!」「この言語を使うなんて人間じゃない!」そうやって責めたて、のけ者にし、マイノリティーだと言う。しかし、もとをたどれば同じ人間なのだ。

このことを表したのが、「酸っぱい葡萄も甘い葡萄もある」という言葉だ。


この言葉を聞いた時、私はふと今までの言動を振り返った。私の言動は大丈夫だったか、と。

日々の生活の中やSNSなどの媒体などで、私は偏見や差別ヲタクに恋は難しい行っていないだろうか。相手を不快な気持ちにさせるような言葉を使っていないだろうか。


言葉は難しい。

使い方や言い方1つで、その言葉の意味を変えてしまう。それに加えて、受け取り方も相手によって違ってくる。そんな中で、私は酸っぱい葡萄になっていないだろうか。言葉を多面的に見ることができているだろうか。

自分の今までの言動を振り替えさせてくれる、そんな時間だった。