東京の学校で、ワイドショーにもかなり取り上げられたいじめの事件でしたし、学校内で担任までが、一緒に、いじめをしたりしていたかのような記憶があります。結構、有名ないじめの事件でしたが、
お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん…と泣き叫ぶ妹の声は、未だに覚えています。
女性の世界、特に、ママの世界では、いじめはなくならないでしょうし、陰湿なイメージは想像できます。
男の世界は、好き嫌いならば、わざわざ一緒の空間にいないから、顔を合わすこともなく、いじめみたいな陰湿なものは少ないですが、その分、抗争や戦争や対立は、否定できないが、
女性の世界は、我慢の中、嫌な人間関係を維持しないといけないことに耐えている印象を駿河屋の細やかな人生で感じます。
それが平和かもしれないですが、人には個性があるから、対立や競争、抗争がある。
いじめは、集団生活の中で異質な人間を排除することに生じますから、個性の否定でしょうが、
外国人の子供がかりに、公立小学校に入学したら、たぶんいじめられる。
が、逆に、外国人の子供を特別扱いにして弱者として甘いアメを与えるのもいじめみたいな原点。
競争や対立は、いけないと教育しているかもしれないですが、個性を尊重する社会を形成するには、競争や対立は必然です。
いじめは、集団生活の中で異質な人間を排除するが、
競争や対立は、集団生活の中で異質な人間が差別化する。
主体性があるか否かの違いですが
、
いじめは、集団が弱い人間を排除するが、
競争は、強い個性的な人間が集団を排除する。
個性の尊重を定める憲法は、国家間の戦争は否定しているが、個と個、あるいは個と集団との競争や対立を是認しているから、個性を尊重する社会になる。
憲法改正して、戦争する国になるか否かは知りませんが、国家間の戦争をしたいならば、個を否定し、集団生活の社会にし、異議を唱えるならば、いじめてでも排除しないと国家たる集団を形成し、国家と国家の戦争、あるいは国家と異質な個人の排除ができない。
個人の尊重は、競争を繰り広げるが、
国家の尊重は、戦争を繰り広げる。
哀しいことに、人は対立を好むから、平和な社会が築けない。
平和は、弾圧や侵略、いじめを見て見ぬふりをすれば、永久に平和はあるが、それは、尊厳がある人間や国家には難しい選択肢。
いじめで自殺したニュースの妹。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん…と泣きながら棺にしがみついたシーンは、
家族の幸せや平和を潰したのだから、加害者に報復するのが正義だと思いますが、
人を自殺に追い込むぐらいにいじめをしていた集団生活の学校は、未だに公開されている。
が、いじめをする集団の一員は、チンケだから、報復しても逆に、いじめになる。
人間は強いか弱いかで、生き方や振る舞いが変わりますが、集団の中にいる人間は、非常に弱くてチンケで脆い。
自殺した彼は、弱いかもしれないが、いじめ集団の一員で生きている連中は、もっと弱いのは確か。
自殺は美学でもなんでもない。
自殺するぐらいならば、報復するか、戦うぐらいの構えがあって欲しいと思う。
あの時の妹は、あれからどんな人生を歩んできたかは、他人ながら、気になります。
