Born in 1965

Born in 1965

人生イロイロ

(画像はネットの拾い物)

私は右耳4つ左耳に3つピアスの穴があります。

最初に開けたのは高校2年。まだピアスを開けている女性は少なく、ピアスを開けてもらうのに美容外科に行かなければなりませんでした。クリップのイヤリングが主流で、ジュエリーショップのピアスのコーナーはとても小さくバラエティーが無かったです。

 

オシャレに凝りだし大人のお姉さんに憧れていた私は、ピアスを開けたくて仕方がありませんでした。

医者に行って親バレは困るので、自分で開けることに・・・

布団針をライターで焙ってエタノールで消毒。さすがに自分で突き刺すのは難しいので弟を動員驚き

弟はめっちゃくちゃ怖がったのですが、「思いっきりやってしまって!」とお願いしました。突き刺さったものの裏側に貫けず、耳の裏に板を当てて貫通。弟はビビりまくり。痛かったと思うのですが、アドレナリンが出ていたのか?痛みの記憶がありません。布団針を抜いてピアスを入れるのもドキドキでした。今なら怖くてできないですけど、女子高生の根性すごいです。

毎日消毒して、目立ちにくい小粒のオニキスのピアスをつけて登校していました。私の学校ではピアスなんてしている生徒はおらず、風紀の先生も念頭にも無かったのでしょう、2年間見つかることなく卒業しました。

 

その時開けたピアスの穴は斜めになっていて、左右の高さが微妙に違います。

こちらでは薬局で医療グレードのピアスを買えばピアッサーで開けてくれました。左右のバランスをとるために右耳にもう一つ開け、その後もう二つずつ増やし、若いころは服装に合わせ取っ替え引っ替えジャラジャラ着けていました。

 

今は7つのイヤリングをコーディネートして着けたり外したりする気力は無し。

耳裏側のキャッチが髪に引っかかったり横向きに寝るとき当たって痛いですし、大ぶりの重いピアスは肩が凝ります。

普段はキャッチのないぶら下がるタイプのベーシックなピアスをつけっぱなし、ずぼらです。

母方の祖母の実家はまあまあ裕福。大正生まれの祖母は書生さんや奉公さん達がいる家で”いとうさん”と呼ばれ、お稽古事をたくさんし女学校に通ったハイカラさんです。

祖母は親が決めた縁談で東京の裕福な家に嫁ぎます。不幸なことに戦争が始まり祖母の夫は出征、母が生まれ、その後祖父は戦死。母は自分の父親と一度も対面していません。

戦争が無ければ母はお嬢様だったかもしれません。

祖母は嫁ぎ先で子育てしながら戦火の東京を生き延びました。戦後、大阪の祖母の父親が跡取りも産んでいない祖母は嫁ぎ先で苦労するからと、祖母と母を呼び戻しました。

 

母は祖母の実家で「父親の顔も知らないかわいそうな子」と、大人に囲まれ大切に育てられました。ずっと自分より哀れな人間はいないと思って育ち、大人になって折に触れ戦後大変な苦労をした人々に出会いびっくりしたそうです。

 

お嬢さん育ちの祖母は生活力がありませんから、親が縁談を持ってきて再婚。お相手(血は繋がっていませんが私の祖父)は母と同い年の息子がいるシングルファザーでした。

お隣に祖父のお姉さん夫婦が住んでいて、息子の子育てを手伝っていました。継母に育てられるのは可哀そうという祖父のお姉さんの配慮で祖父の実子はお隣で、義理の娘の母は祖父の元で育ちます。母は祖父と養子縁組をしていますので、お隣に住む祖父の実子と戸籍上は兄妹(姉弟?)同じ名字、同じ学校に通う同級生。戦後なので複雑な家庭はたくさんあると思いますが、まあまあ複雑です。

母は8歳で弟が生まれるまで、祖母がおんぶで通学したとか、ものすごく過保護、祖母もかなり変。

祖父は大手企業のサラリーマンでお金持ちではありませんでしたが、定年まで勤め安定していました。

 

ハイカラさん育ちの祖母は戦後物の少ない時代にマヨネーズを自作し食卓に洋食を並べたり、近所の子供たちに手作りのおやつを配ったりしたそうです。和裁もたしなみお隣の義理姉さん達と着飾ってよく観劇に出かけていました。祖母たちのハレの日はいつも和装でした。私も小さい頃、祖母に連れられて観劇に行きました。お芝居を観ながらお弁当を食べた記憶。

 

祖母の過保護は母が結婚してからも続き、私たちが大阪市内にいた頃はしょっちゅううちに来て母の代わりに家事をしていました・笑。

お嬢様育ちの祖母がサラリーマン家庭で真綿で包んで大事に大事に育てた結晶が私の母です。

 

 

長女症候群に関するニュースを読みました。

 

 

私は長子で妹と弟がいます。

小さい頃から「お姉ちゃん」として育てられました。

 

父は昭和のお父さんで、家事一切せず、冷蔵庫も自分で開けない人でした(父がキッチンに入ることが無い)。コーヒーが飲みたくなったら私に「コーヒー」というだけの人。子供だった私がコーヒーを入れていました。

当時は母は仕事をしていて忙しいから仕方ないと思っていたのですが、今思えば母は優先順位がばらばらでいつもやらないといけないことが溜まっていました。

私は否が応でもしっかりせざるを得ない環境でした。

 

私が小3になり母が月~土曜日勤務の職場に転職(当時は金融も土曜日営業)。平日は学校からの帰宅と母の帰宅がほぼ同じ時間なのですが、学校が午前中で終わる土曜日や長期休みは私と妹は学童保育へ。(昭和は週6日勤務、土曜日も通学)

3時になったら妹を連れて弟が通う学校近くの保育園に行き、弟をピックアップして3人で家に帰っていました。

9歳の子供に園児を託す保育園もすごいですが、昭和は色々緩かった。笑

 

ずっと大阪のど真ん中で生きてきた母にとって、当時移り住んだ郊外はバラエティーが乏しく買い物に不便。

私が少し成長すると母は2~3ヶ月に1度くらいの頻度で、退勤後買い物するために私たちを大阪市内に呼び出しました。私は土曜日の放課後下の子たちにランチをたべさせてから、母の退社時間に合わせて3人で電車に乗って大阪市内へ行ってました。

母は地図が読めない人で、自分が決めた待ち合わせ場所に現れません😢私は何十分も待ち合わせ場所で待った後、妹と弟を連れて母を探さなくてはいけませんでした。母は自分が思ったところに私たちがいなくてパニックになり、改札やホームをウロウロ。極度の近視なので人の多い構内では私たちが見えなかったのかもしれません。待ち合わせは特急の停まる大きな乗り換え駅で、ホームも改札もたくさんあり3階に分かれていました。何度待ち合わせ場所を確認しても母は混乱するようで、なかなか会えないことが繰り返されました。私も小学生だったので、会えないと不安ですし困りました。私が成長して母が待ち合わせが苦手であることを悟り「母は電車を降りたらそこを動かない。私が母を見つけるので、母は私たちを探さなくてよい。」ということで落ち着きました。

 

昭和の会社は社員旅行があり、景気の良かった母の勤務先は年に2度1泊2日の社員旅行、母も参加していました。

小さい頃は食事の作り置きはしてくれていましたが、父は何もしませんから、私は2日間家事です。年齢を重ねる毎に私の家事能力は上がりました。

 

弟とは3歳違いで、私の高校入学と弟の中学入学が同じ年。母は卒業式でも休んだし私の高校入学式もあるので休みが取れないということで、私は前月に卒業したばかりの中学の入学式に母の礼服を着て弟の保護者として参列。先生も他の保護者もびっくり。保護者の中には顔見知りのお母さんたちもいますし、何なら学校のことはお母さん方より解っていますし、保護者とも普通に会話して乗り切りました。

 

まあまあハードモードな「お姉ちゃん」子供時代でした。

 

おかげでめちゃくちゃしっかり者に育ち、中学に上がる頃には毎年学級委員に選ばれ男子たちまで仕切っているような生徒でした。

近所のおばさんや同級生のお母さんたちにもしっかりしたお嬢さんと評判良かったです。

その後は自立心がメキメキ育ち過ぎ、母の手におえなくなります爆笑

 

自分が子育てをするようになり、子供時代の自分自身をちょっぴり可哀そうに思います。

その反動か?息子たちを甘やかしすぎたかも・・