「お前さん、最近、シゴトしとるんか?」
・・・・・という、素朴なギモンをいただき、
・・・。
あまり働いていないように見えても仕方ないのかな?
と思い。
確かに、はたから見れば
年が暮れても明けても、休んでばっかり![]()
旅してばっかり
快楽主義、楽観的~![]()
と言われてもしょうがないか。
事実、そうなんだし。
しかし。ワタシだってちゃんとお仕事してます![]()
ってことも、ちゃんと主張したくて、
最近の勤務について。。。
先日はちょっとした救出劇があった。
だいたい、週に1回または2回ペースで訪問看護に伺う事が
多いのだが、
主治医の指示や利用者ご本人の意向なんかで
ひと月に1回とか2週に1回というペースでの訪問となることもしばしば。
幻聴やら被害妄想やらで
地域での生活もなかなか大変なわけで。
一生懸命暮らしていても、
ちょっとした事が刺激となり、
調子を崩す事も多い。
そんなとき。
訪問看護が入る事で、
ちょっとした変化やサインを見つけ、
早めに外来につなげたり、
頓服の内服を勧めたり、
その利用者さんを支える関係者と早めの対処を考えていくのが
訪問看護の大きな意義であり、やるべき事なんだが、
訪問のペースが空いてしまうと、なかなか
利用者さんの調子の変化、サインに
早めに気づく事が出来ないのが
悩んでしまうところだ。
「調子悪いんです」サインが自ら出せるヒトもいれば
全然出せないヒトもいる。
それは疾患の有無に限らず
ヒトを上手に頼ることに長けているヒト、
そうでないヒト、ということもあるし、
「自分でやっていける」というプライドが邪魔をしてる場合もあるし、
具合が悪すぎて、悪すぎて、
たとえば、周囲のヒトやモノ全てが自分の敵に思えたりして
ヘルプサインが出せないヒトも居るだろう。
・・・・・なかなかムズカシイところだ。
先日の救出劇も、
ヘルプサインがまったく出せて無かった利用者さんだった。
でもデイケアへの参加の減り方や
予定の外来に来れず、ずれていた事、
連絡してもいつしか留守電にしか繋がらなくなっていた事、などなど、
よくよく辿ってみれば“変化”らしき事は充分感じられる。
無応答にたまりかねて訪問してみると
ドアが開かない。
それでもドアをブチ破って入る事は出来ないので、
とにかく応答してくれる事を願ってドアをたたいていると、
ほふく前進のようにしてドアを開けてくれる利用者さんの姿。
でもドアチェーンに手が届かなくてはずせない。
立ち上がれなくて、はずせないのだ。
看護師2名で駆けつけ、ドアの隙間から手を伸ばして
利用者さんを何とか支えて頑張ってもらい、
どうにかこうにかで
やっとドアチェーンが外れた。
もう、1人では立ち上がれなくなっていた。
そのあとすぐ、2人がかりで外来に同行。
身体的にも心配な状態であり、
バルンカテやらDIVやらの処置がすぐさま行われる。
そのまま入院となった。
具合が悪くて、内服はおろか、水分も食事も摂れず
数日の間、1人でどうやって過ごしてたのだろう。
ほふく前進でやっと玄関に現れた姿を目の当たりにして
プロフェッショナルとは思えないが
カチコチに一瞬だけ固まった。
ケイタイだって、意味を成さなかった。
トウキョウはこんなにヒトで溢れてるのに、
誰にも言えてなかった。
このヒトは数日間、どんなんだったんだろうと思うと
どうにもこうにも泣けてきた。
もっと早くにどうにかできなかったのかという
悔やまれる思いも一杯だ。
今はとにかく、その人の復活を祈るばかり。
・・・・・自分らの関わるケース全てがこうではないけど、
こんな仕事なのか、と重々しく思うこともしばしば。
プロフェッショナルとしてはどうなん?と
ハナで笑われるような、感じやすく何かと泣けてくる看護師というのも
考えものだよなぁ、と思うことも多い。
・・・でもまぁ、いいんじゃね?
何を目の当たりにしても、ちっとも感じるものが無いよりはさ、
ってことで。
そんでも、この仕事をもう少し続けてみる。
そう決めたので、
何があっても自分の仕事として、もう少しやるぞな。
これがワタシのお仕事。
ちゃんと?ハタライテイマス。
